京都大学野生動物研究センター屋久島フィールドワーク講座>第10回・2008年の活動−シンポジウム

第10回・2008年の活動

学びの島としての屋久島を考える

〜屋久島野外博物館構想の10年間をふりかえって〜

揚妻直樹(北海道大学)

「屋久島野外博物館構想」の経緯

 屋久島が世界遺産に登録されて間もなく、遺産地域である西部海岸部を通る県道の拡幅計画が発表されました。これに対し、島では拡幅推進派と慎重派に分れ、様々な意見が出されました。また、研究者は自然環境保全の立場から拡幅を行わないよう要望しました。島の中で数年間の議論が続いた末、最終的には拡幅計画を凍結することで決着しました。そのとき、町は研究者たちに対し、自然の価値を損なわないような利用法を提案するよう要請しました。そこで研究者たちが提案したのが「屋久島野外博物館構想」です。
 「野外博物館」という言葉は、まだ世間にはあまり定着していない言葉です。普通、我々が博物館へ行くと、様々な展示品を見ることができます。その一つ一つに解説がつけられています。そういった解説は博物館の学芸員や研究者の研究成果をもとに作られます。私たちは、展示品や解説から多くのことを学ぶことができます。一方、屋外に目を転じると、そこには森だったり、人々の暮らしがあったりします。その自然や人の暮らしも展示品と見立てて、解説を加えれば博物館の機能を果たすことができるのです。それが野外博物館というわけです。野外博物館活動は自然環境が保全されていてはじめて成立します。逆にいえば、自然を良好に維持したまま利用する方法の一つと言えます。
 この構想を具体化するために、1998年から町と研究者が協力して、毎年夏に全国の大学生と屋久島高校生を募って、屋久島の自然や文化を研究する「屋久島フィールドワーク講座」と島民向けの観察会や講演会を行ってきました。フィールドワーク講座は1週間泊りがけで一線の研究者が昼夜を問わず指導するというハードなものです。それでも毎年多くの若者たちが参加を希望してきます。これまで200人もの若者たちが参加しました。

学び場としての屋久島

 「屋久島野外博物館構想」が始まった頃は、屋久島の中では自然や文化を直に体験するような催し物・事業はあまり活発に行われていませんでした。ところが、その後の10年でエコツアー(環境文化の体験型少人数観光)が屋久島の産業として定着したり、様々な団体が自然や文化を体験する催し物を頻繁に開催するまでになりました。これからも、この傾向は強まってくると思われ、屋久島には「学びの場」としての役割がますます求められてくるでしょう。今後、学び場としての屋久島をどのように活かしていったらよいのか、そのためには何が必要なのか考える時期に来ていると言えます。そこで、2008年夏に「学び場としての屋久島を考える」というテーマでのシンポジュウムを屋久島・安房で開催しました。当日は100人を越える方々が参加して下さり、盛況でした。

屋久島野外博物館構想10周年シンポジウム:学び場としての屋久島を考える


 シンポジュウムの第一部では、まず湯本さんに「屋久島野外博物館構想」が始まった経緯、「屋久島フィールドワーク講座」の活動内容について解説をしていただきました。その後で、実際にフィールドワーク講座に参加した4名の方々に、この講座がその後の進路や生き方や考え方にどんな影響があったのかを語ってもらいました。いずれも、フィールドワーク講座参加後7から11年経過している方々です。内田さんと牧野さんは屋久島高校生の時に、大学生に混じって参加しました。そして、内田さんは現在、大学院に進学しコケの研究をおこなっており、牧野さんは環境コンサルタンティング会社で活躍しているそうです。二人とも将来的には屋久島に戻って、今の経験を島のために役に立てたいという決意を示してくれたのが印象的でした。福島さんはこの講座で、屋久島の人たちに昔の暮らしの話をたくさん教えてもらったときの話を紹介してくれました。彼女はその後、大学院に進学し、今度はタイで地元の人たちに森の利用法を教えてもらい、人と森の関係を研究しているそうです。川野さんは、この講座の後、博物館職員を経て、現在は高校の先生をしているそうです。昨年まで、自分の教え子を何十人も屋久島に連れてきて指導にあたっていました。教わる立場と教える立場の両方の視点から学びの場として屋久島を語っていただきました。いずれの方々も、フィールドワーク講座での体験を活かして、それぞれの人生をしっかり歩んでいることが解りました。
 第2部では、今年のフィールドワーク講座参加者による、ポスター発表会(壁新聞形式)を行いました(各班の報告・感想のページをご覧下さい)。これは、島の人たちにフィールドワーク講座で行った研究内容を知ってもらう初めての取り組みでもありました。4班それぞれについて研究内容の短い紹介の後、各班4ヶ所に分かれて説明しました。それぞれのポスターの前には島の人たちが大勢集まり、熱心に聞いて下さっていました。それだけでなく逆に、発表者に対して屋久島の色んな情報を教えて下さっていたようでした。
 第3部では、各方面のパネリストに集まっていただき、第1部・第2部で紹介されたこれまでの取り組みや参加者の感想をもとに、今後、学びの場所としての機能を高めるために、屋久島でどんな取り組みが必要なのかを議論しました(後述)。様々な観点から多くの意見が出されましたが、それらを集約すると、つまるところ屋久島において野外博物館活動を企画運営する事務局を設置し、それを専門とする担当者を常駐させることが求められているように感じました。このことは、今後、屋久島を学びの場として活用させるための重要な課題となってくると考えられます。

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第3部パネルディスカッション
「学び場としての屋久島をどう活かすか」

1) 屋久島フィールドワーク講座の事業をふりかえって

揚妻(北海道大学)
 これまで、10年間、屋久島フィールドワーク講座という形で、体験型学習をつうじてさまざまな人材を育成してきたわけですが、このシンポジウム第3部では、さらに屋久島を教材として活用していくにはどんなことが必要なのかについて討論していきたいと思います。

丸橋(武蔵大学)
 屋久島、永田は自分にとって第二の大学でした。1974年に永田集落に移り住んで、サルの調査を始めました。西部林道のみならず県道も未舗装で、通る車は一日に1?2台だったのです。永田では自然を守る会が屋久杉の禁伐運動をしており、浜ではウミガメの調査をしていました。そういうなかでサルの観察をはじめ、大学院生として青春時代を送れたことは本当によかったと思います。屋久島は深くかかわれば、だれにとっても第二の大学になるでしょう。学びの場として質が高い、逆に言えば問題が凝縮している、優れた自然がある、学ぶ者自身のパッションも高いという条件がそろっています。

手塚(ヤクタネゴヨウ調査隊)
 23年前に屋久島の自然がすばらしいと思って一湊に移り住んできました。僕が来た頃は、西部林道はすでに舗装されていて、瀬切川付近の2車線の道が工事中でした。その頃、あこんき塾1 という地元の方と研究者の方たちの活動に出会って、屋久島のことをずいぶん学ばせていただきました。おいわあねっか屋久島2というグループの活動に参加して、人の世界も自然とあわせて考えていかなくてはならないなと思うようになりました。屋久島の自然、樹木に惚れていましたので、西部地域というのはすごくいいところだと思っていました。そういう時に西部林道の拡幅工事計画がありまして、私自身で、西部林道を歩く会3足で歩く博物館をつくる会4 などで、自然観察会をやったりして、西部地域に思い入れがありまして、ヤクタネゴヨウの保全活動などにも取り組んできました。

日下田(屋久杉自然館)
 野外博物館の経緯について、屋久杉自然館として補足しておきたいと思うのは、昭和50年代後半に国有林事業が立ち行かなくなるなかで、将来展望をどう開くかを屋久島の人たちが模索していたことです。上屋久町では林地活用計画5が、屋久町では屋久杉の里構想6という自然を生かした形での屋久島の将来が模索されていました。その具体的な事業のひとつとして、屋久町は町立の屋久杉自然館を発足させ、上屋久町では野外総合自然公園をつくり稀少野生生物の増殖事業を手がけたわけです。全国的にみて町立の博物館は運営がつらいところですが、屋久杉自然館は相当有効に元気に活動している博物館だと自負しております。

上舞(屋久島高校)
 屋久島高校で環境コース7を担当しております。第1部では屋久島フィールドワーク講座出身の発表者もだれもが、自然のすばらしさ、魅力を語っていました。講師の方々も魅力的で、生態学を職業とする大変さ素晴らしさを受講生が感じていることがわかりました。高校としては、今日の発表を聞いて考えが若干変わってきました。

塚田(屋久島町環境政策課)
 地元の行政で環境政策を担当しています。0回目のフィールドワーク講座8の開講にあたって地元の担当者として、京大理学部で、丸橋さん、揚妻さん、安渓さん、手塚さん、湯本さん、山極さん、環境庁の池田さんなどと5時間ぐらい議論しました。当時上屋久町は、自然資源の価値をそこなうことなく活用し、新たな産業を創出し所得の向上をはかっていこうという、どこの自治体ももっていない環境資産という考え方をもっていました。環境教育というか、全国の子供たちが、この島の自然を体験することによって、新たななにかが生まれるのではないかと期待をもって、講師の皆さんに無理なお願いをしてきたし、今後も無理なお願いをし続けていきたいと思っています。みなさん人生を左右する体験をした学生もいましたし、専門に進まれた方もいっぱいいます。地元としては、そういう人たちを今後も少しでも増やしていきたいと思っています。

2) 自然の有効利用モデルを示せたか

揚妻
 西部林道の拡幅の道路工事をやめたことは、地元島民が決めたことだと思いますが、研究者もやめて欲しいといいました。自然を壊さない利用の仕方を考えよう、そのために一緒に協力しますよといって、町などに要望したのです。その結果として、町からの注文だった自然の有効利用モデルを示しなさいという課題に、この10年研究者は応えてきたのか、について意見をいただきたいと思います。

丸橋
 屋久島の自然の価値は非常に高く、島の人たちに根源的な自然への畏敬を感じます。もうひとつ自然科学のよる分析が自然の価値を裏打ちしていくことが、自然を大切にして島を発展させていくベースになると研究者は考えてきました。将来の人たちからなぜこんなことをしたんだと言われないような活用が必要です。そのなかで焦点となったのが瀬切川右岸の問題だったし、西部の垂直分布をどう守るのかということでした。地元の方からは、研究者はもっときびしい現状を知りなさいと言われてきました。だから研究者がどうかかわっているのかが問われてきたのだと思います。そのひとつの回答が、屋久島フィールドワーク講座であり、そのスタイルであったわけです。

手塚
 フィールドワーク講座は10年続いてよかったと思います。受講生も何百人といた訳ですし、やっぱり学びというのは後世に残っていくものだから、担う役割があるでしょう。経済的な面ではどうかわからないけれど、西部林道地域は残されたわけだから、屋久島の自然の価値はあそこに行けばわかるよといえます。しかし、10年構想構想といってきて、これからどういう風な形にしていくのかが問われていると思います。

塚田
 西部林道の拡幅問題前に、上屋久町の行政スタンスが大きく変わった出来事として、ロープウエー構想9の挫折があったのです。当時、霊長類学会の伊谷会長が朝日新聞の論壇で真っ向から反対された10のでした。そのなかから、これからは環境保全をしたほうが時代のニーズにあうのではないかという行政側のスタンスの変化があって、西部林道の拡幅問題があったわけです。連続性ということからいえば、すでに拡幅された場所もあり、20kmあれば研究のフィールドとしてはもう少しよかったでしょう。経済的には、柴崎さん(後出)が計算したところ、今は年間10億円ぐらいの価値があると言われているわけですから、一方、道路工事は年間十数億で数年なので、環境保全をしたことによって経済的にも十分見あったとも考えられます。

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3)将来の展開:教育機関との連携

上舞
 屋久島高校では、環境教育においては、屋久島環境文化村財団に財政面でバックアップしてもらっています。知識の面で、人的な交流ができないことが問題です。どこに頼るかというと、屋久島高校は鹿児島県の機関なので、まず財団、林野庁、環境省といった公的な機関に頼ることになります。公的な機関は、そんなに屋久島を深く知っているわけではなく、知識の面では欠けていると思います。屋久島に窓口、コーディネートをしてくれる人がいれば助かります。われわれだけではなく、屋久島に来る各学校も窓口を探していて、われわれがコーディネートすることもあるんですが、一本化した窓口があるとよいですね。

日下田
 室内型の博物館、たとえば屋久杉自然館では、展示したいものを抽出して展示することしかできません。屋久島のように多様で重層的な自然環境があり、それとかかわっている人々の暮らしようがあるところでは、野外博物館は重要です。

手塚
 僕は自然そのものが博物館なんだという考え方を「おいわねっか」で叩き込まれました。屋久島の人と自然を結びつけることが必要だが、今ある博物館の横のつながりをつくるためにも、野外博物館には少なくともひとりか二人の人がつけばよいと思うのです。博物館にとっては、研究も保全にも重要だが、まだまだすごく手薄な状況です。シンクタンク的な役割をもつきちんとした組織をもつため、構想はもう終わりにして、地元がやらざるをえないと思います。地元でやるからこそ大事であり、具現化していく覚悟を自分の課題として考えています。

日下田
 屋久島の野外博物館に圧倒的な特徴は、かかわる人たちの知識能力がべらぼうに高いということで、見識をもち専門分野について高い能力を持った人たちが集合しているわけです。これまでは出力は屋久島フィールドワーク講座という形で、限られた意欲的な応募した人たちに対して提供されています。一方、屋久島には、あこんき塾、おいわねっか屋久島など、個人の意志の集合としてつながる系譜があります。これを広く活用することはできないか、ということですが、なかなか難しい。手弁当でやってくださっている、ということと、本来それなりの旅費や宿泊費を用意しなくてはならないことがあって、オフィシャルなところと開かれたところで成立するということは難しいです。それをやっていたら、いつまでたっても構想の10年を越えられません。そこで、具体的な形を示したらどうか。フィールドマップをつくり、それの基礎になるテキストをつくったらどうでしょうか。最近屋久島では、わけもわからずにレンタカーで走り回る人ばっかりですから、そういう人たちに有効でしょう。ただしこの話だけではなく、各施設の能力を付加するためのコーディネートの組織については別に考える必要があるでしょう。

手塚
 たくさんの研究者が個々の努力でかかわってきて、研究成果をもっと公開することも必要です。そのためにも窓口がほしいが、人と予算をきちっとつけることが必要だと思います。

揚妻
 愛知県豊田市の矢作川学校の活動は、ネットワークをつくる参考になるでしょう。矢作川では、さまざまな住民の組織があって、矢作川を自分たちの水源として守るために、豊田市は水道利用に課金したことがありました。その結果集まったお金を、水源の調査研究にあてており、行政もこういう関わりができます。常勤職員が数人しかいませんが、私のような研究者がかかわって維持しています。たとえば、梁(やな)という漁法文化は廃れてきていますが、これを後世に映像資料として残すプロジェクトに私も参加していました。一般向けの広報誌なども発行していますし、また豊田市の高校が、中学生やお年寄りなどと一緒に水質分析をしたりしています。
 そこで、屋久島でも参加している人も発信できるような、集まりの場がいるのではないでしょうか。たとえば、若い研究者らが行っていたスライド講演会は、区長さんや屋久島高校に講演させてほしいと頼みにいって、精力的にやってきましたが、その場を個人的な努力で維持していくのはなかなかしんどいものがあり、この数年は休止状態にあります。また、被害のあるシカの調査やサルの調査もしているわけですが、農家の方に研究報告会を個人的に開いている状況です。研究者サイドに加えて、地元のさまざまな研究団体も発信を求めていますが、その受け皿がないのです。なにより、そうした人たちが集うことで、ネットワークができるでしょう。

上舞
 小学校、中学校、高校では、研究者からでてくる結果を捉える能力がまだなく、事前学習が必要です。わかりやすいプログラムをつくって集積していく前段階がないとわかるようにならないし、裾野がひろがっていきません。そのうえでの交流の場ということになると思います。ここに貼られているポスター発表をわかりやすく噛み砕いて説明してもまだ難しいでしょう。それを説明するプログラムが必要だと思います。

丸橋
 あこんき塾で考えられたことは、屋久島の人の自然に体する深い理解と技術が途絶えかかっているときにどうしたら世代間で継承していけるのかということでした。カメやヤクタネゴヨウの研究にみられるように、島内にモニタリングをしたり、研究をしていく人材がでてくることが重要です。そういう人材を育てる場として、屋久島フィールドワーク講座が機能していけばよいと思います。身の回りの自然を知ろうという動きが野外博物館につながるのではないでしょうか。実際の生活とのつながりがないように見えますが、屋久島の島民自身が島全体を博物館として生きていこうと自覚して、屋久島の変化と要因を気づいていくというメカニズムが必要です。

手塚
 ヤクタネゴヨウの調査は、調査自体が厳しいので、子供をつれていくことは困難です。大分舞鶴高校は事前に訓練されてきたので、やろうと思えばできるのですが。足博などでは島の人が島のことを知るのが重要だと思ってやってきました。とくに島の子供たちが自分たちの環境を知るということが重要ではないかと考えて、一湊にしかいないヤクシマカワゴロモの調査を一湊中学校の生徒と分布調査、水質調査からスタートし、データを研究者に送るなどの活動をしています。

湯本(地球環境学研究所)
 いつまでたっても野外博物館が構想でしかないというのは、常設の事務局がなく、安定した基盤がないからです。たとえば、事故のリスクを数人の個人に背負わしてしまうというのは、体制に無理があります。私のアイデアをいうと、公的な機関、屋久島町、あるいは環境文化村財団に常設の事務局をおいていただきたい。そして入島税を取入れ、おもに観光に島に入ってくる人たちに負担していただいて、マップをつくるとか、ガイドテキストをつくることによって、観光客にも還元していくことができると思います。

柴崎茂光(岩手大学農学部)
 地域資源管理学の立場から世界遺産の管理などを10年ぐらい研究してきました。野外博物館活動で、瀬切の集落跡など、地元の人が知らないような情報を学生と一緒に調査するのは面白いと感じました。学びの場として、島民や高校生、島外の学生さんに活用するというのは賛成です。野外博物館はエコミュージアムと近い概念だと思うのですが、それは基本的には観光利用ではなくて、地元の方が新たな価値や活力を見いだしたりする目的で本来行われていた活動なので、これを観光利用にすぐもっていくというのは大丈夫かなあと思うわけです。
 2年前に地元の方に調査したところ、遺産の登録後に環境の悪化しているという方が6割以上で、観光客の数は微増、観光ガイドは微減を望むという地元の意見でした。教育目的はいいと思うけど、観光に急激にシフトさせると、慎重なデザインがないとフィールド自身が壊れてしまうでしょう。たとえば、白谷雲水峡は昔原生の自然があったけど、観光の拡大によって島民のテリトリーがなくなってきたという地元の方の嘆きの声があるのも事実です。

地元女性(屋久島地学同好会)
 学びの場というと学校教育しか視点がいかないのが不満です。定年後移住して20年近くになります。今日の話は地面の上が中心でしたけど、私は地面の下が知りたくて、地学同好会をやっています。今高齢化社会で、新しく屋久島に移住してくる人も多く、これからも続くと思うんですね。ですから学びの対象を子供だけでなくて、島の住民を視野に入れていただきたい。そのためのネットワークが欲しいですね。かつて地学同好会をはじめようとしたとき、屋久島高校に最初はけんもほろろに断られました。学校教育の現場を知らない素人のお願いだから無理もなかったと思いますが、今は同好会が理科教育の一端に参加しています。屋久島の地質を総合的にガイドする本を作りたいというよちよち歩きに団体です。いままでは偉い先生がお話しして、それを島民が聞いて帰るというスタイルでした。ほかにも島内でいろんな分野で研究している関心をもっている人がたくさんおられると聞いているので、そうした知の集積を使っていただくようにお願いします。そのためには、行政がまず動いていただかないといけません。しょうもないことにお金使っているのを知っているので、お金はないわけではないでしょう。

上舞
 地学同好会と屋久島高校とは、先日も宿泊研修で協力しています。地学同好会のみなさんがマップと連動したテキストの作成をされているので、活用させてもらいました。これは財団から出版されるそうです。今後、こうした概論のようなものを作っていただきたいです。

揚妻
 そろそろ時間ですが、十年後には屋久島の野外博物館の構想の字がとれていることを期待して、みんなで協力したいと思います。ありがとうございました。

(記録:龍谷大学 鈴木滋)


シンポジウムの様子

  シンポジウムの様子

このシンポジウムが終わってから、参加された方々から感想・意見が届けられましたので以下に紹介します。

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フィールドワーク講座の担当講師から

鈴木滋(龍谷大学)
 シンポジウムでは、地元の方達に発表をじかに聞いてもらうことができたのが大きな収穫でした。企画しているときは、ポスターで発表しても、内輪の品評会になってしまい、地元の人に聞く機会を広くすることにはつながらないのではないかと個人的には危惧していたのです。しかし、ふたを開けてみるとそんなことはなく、身近に地元の人の意見や、さまざまな追加のお話をお聞きできて、これまでの発表会にくらべて格段に地元のみなさんと交流ができたように思いました。
 第1部でこれまでの受講生の活躍ぶりを聞くことで、この教育プログラムの蓄積と広がりを具体的に理解できたと思います。また、第2部のポスター発表や、第3部のパネルディスカッションでも、研究者以外のとくに地元のみなさんのフィールドワーク講座をはじめとする研究者活動への視線や期待を伺うことができて、とても参考になりました。この講座は、基本的に研究者が島外の大学生を教育するものであり、地元の期待とはずいぶんずれているのではないかと思っていましたが、今回のシンポを通じて、あながちそうでもないのだということがわかっていくぶんほっとしました。こういう接しやすい形で、教育活動の成果を地元に紹介し、地元の方からの意見を聞くこと自体が、重要な活動であると改めて認識し直しました。
 昨年、旧屋久町に挨拶に行ったときには、旧町長から、研究者は獣害対策など町にもっと実効的な役割をはたして欲しいとの意のことをいわれて、この10年あまり研究者サイドのやってきたさまざまな取組みが、屋久町には浸透していないように感じて落胆したものでしたが、現屋久島町の同じ町長さんから、今回のシンポで強い支持を受けたことは予想外に高い評価をうけたものだと思いました。また、屋久島高校や地元の地学同好会の方などから、もっと知識や研究面でのさまざまなつながりをもてるようにしてほしいとの期待をお聞きできたのも、これからを考えるのに重要な意見に思いました。
 私は、屋久島フィールドワーク講座の10回目のうち5回で講師をやらせていただきました。フィールドワーク講座の期間や班の構成などはいろいろ変わりましたが、全体の方針や枠組みは見事に当初の目的を貫いてきており、どの年もやりがいのある仕事でした。とくに講師やチューターそして受講生の熱心さには、毎年本当に元気づけられたものでした。
 講座は、発案者の湯本さんが当初言っていた10年間をなんとか継続しましたが、この間、予算面でも人的資源の面でも、少なからず無理をしてきたように思います。とくに町の予算が削られてからの後半戦は、繰り返し参加した講師陣に、多少疲弊感がでてきたようです。それでも、この活動が、西部林道や屋久島そのものの、研究者としての能力をもっとも生かした使い方のひとつであり地元への還元活動なのだ、という意識に支えられてなんとか続けて来ました。やって意義のある活動であることは、背景を知らない研究者を含めて、多くの人たちが納得するところだと思いますが、続けるには予算や運営にかかわる体制を、研究者の手弁当依存から脱却する必要があります。そのためには、町、県などの、さらに主体的なかかわりが不可欠であるように思います。現行の体制をこのまま続けるよりは、今後、講座の休止をはさむことになっても、研究者と地元との意見をもう一度すりあわせて、新体制を考える時期にきたように強く感じました。

「学び場として屋久島をどう活かすか」パネリストからの提案

丸橋珠樹(武蔵大学)
 屋久島の方々とお話をするにつけ、屋久島野外博物館を機能させる人と組織が育ってこないことが、色んな場面でボディーブローとして利いていると感じています。それを打破するために、この「屋久島野外博物館構想」のシンポジウムの中で出てきた「屋久島の中で人材を雇用し組織を構築すべし」という提案は非常に重要です。それに関連して、シンポジウムに参加しながら、その組織作りについて以下のような枠組みを考えてみました。すぐに実現できるわけではないでしょうが、野外博物館活動と環境保全型農業・林業は車の両輪と理解して推進すべきだと考えます。

1. 屋久島町で当面3人、将来は3分野で合計10人を期限付人事として屋久島外の優れた若手を野外博物館学芸員として起用する。対象分野は (1)環境保全型農業・林業の推進、(2)野生鳥獣の保護管理、(3)屋久島野外博物館活動(長期モニタリング)の3分野とする。将来計画を策定し、優先すべき政策順位に従い順次雇用する。

2. 口永良部にならって、屋久島も全島を海域も含めて、○○公園(名前は町で検討する)と宣言するとともに、自らを律する目標と規制・自制手段を町条例として策定する。 3. 野外博物館活動に関してはこの活動を基礎付ける長期的自然モニタリングを島民自身が企画運営する。技術的・学術的指導については、先に雇用した屋久島野外博物館学芸員が協力することで、多くの調査領域で島民研究者を育成し調査体制を整備する。

4. 全島民と入りこみ観光客から小額を徴収し、この島民による長期モニタリング調査活動の運営資金として限定的に使用する。

 昨今の屋久島における観光産業の急成長を見ていると、かつての公共土木事業で起きたような、利権と青天井の産業発展が押し進められるのではないかと強い危惧を感じています。このような状況であるからこそ、提案2のような自律・自制の精神を柱にした実効ある形を、島の人々が自ら作らなければならないと思っています。

−脚注−
1. 屋久島住民と屋久島研究者による、野外博物館活動。1985年から約2年間活動 →本文へ戻る
2.人と植物の関わりを中心とした、野外博物館活動。1987年より数年間活動 →本文へ戻る
3. 西部林道を中心とした観察会。1993年より数年間活動 →本文へ戻る
4. 地元の有志による野外博物館活動。1995年より数年間活動 →本文へ戻る
5. 旧上屋久町によって制定された、屋久島の優れた自然資源や自然環境を活かした、ふるさと創生のための指針。1999年頃。 →本文へ戻る
6. 屋久杉の里構想 旧屋久町による、自然を生かして地域振興をはかる長期振興計画。1985年頃。→本文へ戻る
7.屋久島高校普通科の1コース。2001年に設置。 →本文へ戻る
8. 屋久島フィールドワーク講座の前進となった、国際野外生物学実習を指す。1998年開催。 →本文へ戻る
9. 縄文杉へのアクセスのためにロープウェイを作る計画。1987年頃。 →本文へ戻る
10. 1994年5月27 日 朝日新聞 朝刊 →本文へ戻る

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