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第10回・2008年の活動

博物館班の活動

瀬切集落跡が見せてくれたもの


参加者:久富寛子、谷田静香、光田衣里
ボランティアスタッフ:高田直子
講師:杉浦秀樹、鈴木真理子

博物館班メンバー

  1. はじめに
  2. 方法
  3. 結果
  4. 考察
  5. 参考文献

  図1博物館班メンバー 右から、久富、谷田、光田、高田、鈴木、杉浦 瀬切の船着き場にて

はじめに

 オープンフィールド博物館とは、自然や人の暮らしを「展示物」と見立てて、それに解説を加えたものである。来場者は、室内展示を行う博物館とは異なり、フィールドに自ら足を運び、「展示物」を見ることになる。フィールドは必ずしも、アクセスの難しい山奥である必要はない。むしろ近くの自然の中に出かけていくことで、身近な自然や郷土の歴史を見直すことにもつながる。「展示物」は野外にあるため、まずは「展示物」を探す調査が必要であり、さらには案内や解説、アクセスルートの設定なども必要である。
 私たちは、オープンフィールド博物館を自分たちの手で設定し、その「展示物」の地図や解説を作ることを試みた。時間の制約上、現地での案内をするまでには至らなかったため、公開の発表会で、現場での案内を意識したポスター発表を行った。
 永田から栗生までの屋久島の西部地域は現在は無人であるが、かつては半山、川原、瀬切の3つの集落があり人が生活していた。西部地域は世界遺産地域ともほぼ重なっており、豊かな自然の残っている場所である。しかし、決して「手付かずの自然」という訳ではなく、数十年前までは人が相当に利用していたのである。この地域を人がどのように利用し、その後、どう変化しているかということは、自然と人とのかかわりを知る上で興味深い。半山と川原は、これまでもフィールドワーク講座で調査が行われるなどして、ある程度、情報があるが、瀬切集落については情報が少ない。そこで、私たちはオープンフィールド博物館を瀬切に設定した。展示品を探しに、瀬切の集落跡地を歩き回り、そこにある人の暮らしの跡や自然について調べた。さらに、それらに解説を加えるために文献調査も行った。これらの過程を通じて、オープンフィールド博物館の意義を考えた。

屋久島全図と瀬切の位置
図 2 屋久島全図と瀬切の位置

方法

 調査地は瀬切大橋周辺の県道から近い、比較的平らな場所である。事前の情報はあまりなかったため、調査範囲は特に設定せず、歩けそうな場所や、人の形跡のある場所を探しながら調査した。図2の外側の枠で囲まれた範囲が、およその調査範囲である。
 オープンフィールド博物館は、人工物も自然物も展示の対象となるが、人工物の方が目につきやすかったため、今回は人工物を見つけることが中心となった。自然物としては、大型の動物をできるだけ見つけるようにした。また、自動撮影装置を設置することで、昼間の直接観察が困難な動物も調査した。
 日付ごとの主な活動は以下の通りである。

自動撮影カメラ設置中 調査地の概略図
図 3 自動撮影カメラ設置中 図 4 調査地の概略図

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結果

1)文献調査

瀬切に関する記述を文献から探し、年表にまとめた(表1)。大正から利用されていたようだが、大規模に利用されていたのは、戦中から戦後しばらくにかけてのようだ。また、栗生とのつながりが強かったことが伺われる。

   表1 瀬切年表
1889年
(明治22年)
瀬切集落、地図に記載なし(*1)
1921年
(大正10年)
瀬切集落、地図に記載あり(*1)
1922年
(大正11年)
瀬切に農民3戸あり(*1)
1940年
(昭和15年)
屋久島西部は木炭製造が盛んになり、農業は副業となる (*2)
1951年
(昭和26年)
明生林業が本土から来て、西部地域一帯でパルプ伐採をする。瀬切はパルプ伐採の前進基地となる(*1)
950年代後半社有林となった瀬切に数人が生活していた(*2)
1955年
(昭和30年)
明生林業は瀬切から栗生に拠点を移し、伐採地への移動および木材の運搬は発動船で行う(*2)
960年
(昭和35年)
屋久島にプロパンガスが普及し、家庭用燃料が木炭からガスへ転換される(*1)
1965年
(昭和40年)
瀬切でのパルプ伐採が終わる(*1)

2)瀬切川の南側・県道より上

 瀬切大橋周辺の県道より上で炭焼窯や、岩屋、石を組んだ跡などが見つかった。陶器の茶碗や、金属製のやかんなどもあった。しかし、県道より下で多く見つかった、コンクリート、電気製品、ガラス瓶などは少ないようだった。

炭焼き釜1
馬蹄形の炭焼窯
 瀬切大橋の南から少し山側に入った、県道に近い場所にあった。
 馬のヒズメのような形をしている(図5)。縦8.5cm、横5.5cm高さ130cm程あり、その周囲を覆うように石が積まれている。炭焼き窯口には少量ではあるが炭の跡も残っている。
 炭焼窯周辺に人工的ではないかと思われる石で組まれた60cm程の石垣を見つけた。
  図 5 馬蹄形の炭焼窯

石の切出
この炭焼窯の近くに、不自然な四角形に切られた石を何度か見かけることがあった(図6)。また、その近くには、溝や穴のある岩石が見つかることもあった(図7、8)。人工的なものに近くダイナマイトなどで砕かれ、運ばれていたのではないかと考えられる。
四角く切られた石 石を割ったと思われる断面 石を割ったと思われる跡、<br>穴をあけたような直線の筋が残っている。
図 6 四角く切られた石 図 7 石を割ったと思われる断面 図 8 石を割ったと思われる跡、
穴をあけたような直線の筋が残っている。

3)瀬切川の北側・県道より上

急な斜面を横切って進む
 瀬切大橋の北から川岸沿いに登っていったところにあった。道が残っているが、土砂が崩れて途中でとぎれており、アプローチはかなり大変だった(図9)。

  図 9 急な斜面を横切って進む

炭焼き窯2

炭焼き窯2

 上述の炭焼き窯1とは違い、大きく、原型がきれいに残り、土台は赤土で固められていた(図10)。このことから以前使われていたドーム状に赤土が覆った炭焼き釜であることが考えられる。
  図 10 炭焼き窯2

岩屋
岩屋
 周囲には小さな岩(1〜2m)から大きな岩までが転がっていた。その中に5m程あるかと思われる岩石が重なり、人が4〜5人程は入れるほどの隙間を見つけた(図11)。周辺では食器類なども見つかり、ここが岩屋となっていたのだと思われる。
 岩屋の中には茶碗とやかんがあった(図12、13)。この岩屋は雨宿り、休憩をする場として使われていたのではないかと思われる。

  図 11 入り口には石が積んであった。

岩屋のなかにあった茶碗 岩屋のなかにあったやかん
図 12 岩屋のなかにあった茶碗 図 13 岩屋のなかにあったやかん

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4)瀬切川右岸、河口付近

 瀬切大橋の西端から瀬切川沿いに下っていくと、多くの人工物が見つかった(図14、15)。バッテリー、碍子、電線など発電していたらしい跡や、コンクリート製の立派な五右衛門風呂、瓶や酒瓶など、かなり大勢の人が活動していたことをうかがわせる人工物がみつかった。
瀬切川右岸へ続く道? 瀬切川右岸へ続く道?
図 15 瀬切川右岸へ続く道?川が浅くなっており、右岸側に木がない。(県道から撮影)>
図 14 瀬切川右岸へ続く道?川が浅くなっており、右岸側に木がない。左岸側は古い道がたどれる。(左岸側から撮影)  

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5) 船着き場周辺

瀬切川から船着き場へ続く道
 船着場とその上に鉄製のフレームがあった。瀬切川の河口から、平坦な土地が続いており、ほとんど木のない場所がつづいていた(図31)。おそらく道として使われていたのだろう。
 図 31 瀬切川から船着き場へ続く道。写真の左側は海である。右側には、萌芽した木やパイオニア植物(センダン、アブラギリ、カラスザンショウなど)が生えていた。また、樟脳製造のために伐採後同時期に植えられたと思われる幹の太さの揃ったクスノキがたくさん生えていた。

 海岸の岩場から波打ち際までコンクリートで固められた細い道があった(図32)。 船着き場は大きな岩と海岸の間の細い水路にもうけられていたようだった(図33)。船着き場近くの岩には、杭や丸太を固定していたらしい、丸い穴なども見られた(図34)。
海岸の岩場から波打ち際までつづくコンクリートの道 船着き場
図 32 海岸の岩場から波打ち際までつづくコンクリートの道 図 33 船着き場。奥の岩と海岸の間に船を入れていたと思われる
船着場近くの杭
図 34 船着場近くの杭

6)中・大型動物

 シカとサルは直接観察することができた(図39、41)。シカは人を見ると逃げるが、サルは比較的なれており、ゆっくりと観察することができた。
 自動撮影装置でタヌキを撮影することができた(図40)。タヌキは昼間は見ることが難しいが、こういった動物を確認するには有効な手段と言えるだろう。
 なお、タヌキは最近20年ほどの間に、島外から持ち込まれた移入種だと考えられる。

オスのヤクシカ タヌキ ヤクシマザル
図 39 オスのヤクシカ
8月21日 19:15
右岸道下栗の木近く 自動撮影カメラにて
図 40 タヌキ 8月20日 22:58
左岸道上炭焼き窯横 自動撮影カメラにて
図 41 ヤクシマザル 
直接観察ができた

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考察

 瀬切川河口付近には、比較的、規模の大きな人の活動を伺わせる跡がみられた。電線、碍子、バッテリーなどの発電の形跡や、階段のついたえ家の跡、大きな五右衛門風呂の跡、などである。西部海岸の川原や半山にも人家の跡があるが、これらと比べると、規模が大きく立派である。個人利用というよりは組織的に作られたものだという印象を受けた。ここには明星林業の事業所があったという記録があり、それではないかと思われる。
 船着場や立神岩の杭など、船をつけていた跡がみられることから、木材を海に下ろし、船で運んでいたと考えてよさそうだ。船着場近くでみられた鉄製のフレームは、材木の運搬と関係するものかもしれない。
 一方、瀬切大橋の上部でみられた炭焼窯や岩屋などは、明星林業の事業所と同時期のものであるかどうかはよく分からない。これよりも古い時代のものであるか、あるいは個人ベースの小規模な炭焼などに利用されていたのかもしれない。
 さらに、栗生の人が畑として瀬切川付近までを利用していたという話を、栗生在住の方から後日うかがった。栗生から瀬切まではほぼ平らで、さほど行き来は難しくなかっただろう。畑としても利用していたというのは、納得できる話である。
 今のところ、資料はなくはっきりしないが、時代の異なる遺物が混在している可能性を考える必要がありそうだ。

瀬切集落の動物

 瀬切を歩き回っていて、サルとシカを直接見ることができた。特にサルは、かなり人になれており、よく見ることができた。さらに、自動撮影装置によって、タヌキがいることが確認できた。タヌキは昼間に直接見ることは難しいため、このような手段を用いることも、調査には有効だろう。

オープンフィールド博物館の意義

 この調査を通して、普段は気にも留めずに通り過ぎてしまうような場所から、多くの発見ができた。
 現場に実際に足を運び、そこから様々な発見を自分で引き出すことがオープンフィールド博物館の楽しみである。その楽しみを手助けしてくれるのが、場所に関する適切な解説だ。現地調査で私たちが見つけた「展示品」の数々は、文献調査で得た知識なしには発見できなかったし、見つけたときの感動もなかっただろう。
 私たちが「展示品」に関する解説を示すことで、博物館の「来場者」はその解説を基に、また現地で新たな「展示品」を見つけ出すだろう。人を案内することで自分の発見をより多くの人と共有しようとする人もいるだろう。このような発見の連鎖と共有がオープンフィールド博物館の魅力であり、意義だと思う。

参考文献

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このページの問い合わせ先:京都大学野生動物研究センター 杉浦秀樹