京都大学野生動物研究センター > 屋久島フィールドワーク講座 > 第9回・2007年の活動−人と自然班−報告書 |
概要 | 人と自然班 | サル班 | シカ班 | 植物班 | 公開講座 | スタッフ |
報告書 | 感想文 |
講師: 丸橋珠樹(武蔵大学)・チューター:松原幹(中京大学)
受講生:石山かほり(慶應義塾大学法学部政治学科)、上敷領俊晴(鹿児島大学医学部)、森口文(お茶の水女子大学文教育学部人文科学科)、久保奈都紀(鹿児島大学教育学部)
2007年度屋久島フィールドワーク講座で人と自然班が取り組んだテーマは、屋久島の永田小学校で平成9年から行われている「かめんこ留学制度」である。永田集落は人口552人の小さな集落で、麓からは標高1886mの永田岳が望まれ、毎年夏にウミガメが産卵に来る田舎浜、前浜、さらに子どもたちがハゼ釣りを楽しむ永田川など、山、海、川と豊かな自然に囲まれた美しい集落である。しかし、過疎化の影響で年々子どもの数が減少し、永田小学校も複式学級を導入せざるを得なくなっている。「かめんこ留学制度」は子ども数の減少を解消する目的で始まり、11年間におよぶ実績をもつ。永田小学校ではクラスの半数近くの児童が毎年入れ替わる。また全国から様々な子どもたちが永田集落に留学し、里親宅で生活しながら地元の子と一緒に遊んでいる。このような環境で育つ子どもたちは何を考え、どこが違っているのだろうか。学校、里親、実施委員会、子どもたちといった4つの立場の方々に「かめんこ留学制度」についてインタビューを行い、下記について調査した。
(1)「かめんこ留学制度」が行われるようになった理由や、どのような人々がこの制度に関わっているのか、子どもたちは本制度の中でどのように育つか、本制度に関わる永田地区の人々が本制度を支える理由を探る。
(2)「かめんこ留学制度」を通し、過疎化、少子高齢化の問題に対して、永田地区の人々がどのように向き合い、新たな道を模索しようとしているのかを探る。
1)聴き取り調査
インタビュー前に丸橋先生がインフォーマントに実習の目的を伝え、面会の予約を行った後、直接聴き取り調査を行った。一部の子どもたちや里親には面会予約なしで調査にご協力をいただいた。基本的には4人、もしくは2人一組でインタビューを行い、内容はノートに記録し、一部はMDレコーダーで記録した。スケジュールについては後述の活動詳細記録を参照。インタビューの場所は学校、永田公民館、宮司商店、中地、インフォーマントの御自宅等であった。聴き取り調査のインフォーマントと調査地の詳細は下記のとおりである。
また、屋久島内の他の地域住民が永田について、どのようなイメージを持ち、かめんこ留学についてどのくらい知っているかを知るために、宮之浦の図書館来訪者1名と栗生小学校の先生1名にもインタビューを行った。
2) 30年前に作成された地図と航空写真を現在の地図と比較し、永田集落の地理を把握した。また、集落を徒歩で視察し、集落ごとの特徴をインフォーマントからの情報を元に探索した。また、永田小中学校の宮下校長先生のご好意により、孵化したアカウミガメの仔を前浜から放流する活動に参加させていただいた。さらに、昔も今も子どもたちが遊ぶ永田川や横河渓谷を視察し、私たちも実際に川遊びを体験した
3)文献による調査 かめんこ留学がどれくらい屋久島内で宣伝されているかについては、図書館で月報を元に調査した。また、永田小学校の百年史など書物を参考にした(参考文献参照)。
都市部の学校に通う子どもたちが一定期間、親元を離れて、地方の自然が豊かな小規模校に通い、現地の子どもたちとともに生活するという形の山村留学は全国でも数多く行われている。
財団法人育てる会発行の「全国の山村留学実態調査報告書」によると、平成18年度における全国の都道府県の山村留学の状況は次のようになっている。
都道府県 | 27道府県(留学生受け入れ都道府県) |
自治体 | 103市町村(留学生受け入れ93市町村、受け入れなし10市町村) |
小学校 | 127校(留学生受け入れ105校、受け入れなし22校) |
中学校 | 56校(留学生受け入れ47校、受け入れなし9校) |
小学生 | 522人 |
中学生 | 284人 |
山村留学の形態としては大きく分けて次の4つに分類することができる。
1.里親方式:地域の住民が里親になり、留学した子どもは家族の一員として暮らす。
2.山村留学センター方式:地域に設置されている山村留学センターという寮施設で集団生活を送り、そこから学校に通う。
3.里親と山村留学センターを併用する方式:里親宅での生活と山村留学センターでの生活を交互に繰り返す。
4.家族留学方式:家族ごと山村に引っ越してくる。家族と一緒に生活できるので、親元から離れずに学校に通える。
いずれの山村留学も子どもたちに田舎の豊かな自然や温かな暮らしぶりを体験させることによって「生きる力」を育ててもらうことを目的としている。具体的には、親元から離れて生活させることで自立を促す、集団生活の中で連帯感を養わせる、地元の様々な行事に参加させて地域に愛着心を持ってもらう、などの事があげられる。また、過疎化の著しい地域では、留学生を受け入れて児童の数を増やすことで、学校の廃校や複式学級といった問題を解決しようという側面もある。
1976(昭和51)年、(財)育てる会が長野県北安曇郡八坂村で教育実践活動としてはじめたのが初の事例である。育てる会は1968(昭和43)年から、主として夏・冬・春休みに、子どもたちに八坂村の農家へのホームステイや野外活動をさせる取り組みを実施していた。地域住民の参画を得ながら活動を推進するなど、当時としては他に例を見ない取り組みだった。「体験」を重視する取り組みは、急速な都市化と社会の変化の中で大きな反響を呼び、都市部から毎回たくさんの子どもたちが参加するようになった。やがて活動に参加した子どもたちや保護者から、もっと長期間、山村で生活させ、できれば山村の学校に通わせたいという声が上がり、1976年、9名の小中学生が八坂村に転入することになり、山村留学制度が始まった。
6)全国的な成果
永田小学校は1876年(明治9年)に創立され、今年で創立131年目の長い歴史のある地域に根付いた学校である。創立当時は学校に通う子どもは少なく、富家の10名の児童が通学するのみであった。その後、学校に通う子どもたちは増加したが、卒業生数は昭和45年前後から急激に激減した(図2)。島外への就職や進学により永田地区自体の人口が減少し、それに伴い子どもの人口も減少した(図1,2)。そこで永田地区は1996年(平成8年)に「かめんこ留学」という留学制度を企画し、翌97年(平成9年)に第1期生8名を受け入れた。企画からわずか1年という実行までの速さに永田の教育への熱意が表れている。実行当時の背景として、当時の上屋久町長の柴八代志氏が永田出身であったことや、当時の永田小学校校長の協力と受け入れる里親の存在、「愛郷無限」な集落の団結の強さがあげられる。それから毎年、島外からの子どもたちを受け入れ、永田小学校の教員と地域住人が協力し合い、留学生も永田の子と同じように熱心に育てられている。
永田地区について調査していくうちに、過去にも現在にも子どものため、地域のために色々な人が携わっている事が分かった。その象徴のひとつが永田橋である。永田川で起きた『7学童遭難事故』の後、児童が安全に通学できるようにと永田橋を架けた地元主体の推進力と事故発生から橋の完成までに要した期間(3ヶ月)は大変驚異的なものであった。
永田の教育熱心な気風を表す別の事例としては、屋久島で最初の幼児学級が1960年(昭和35年)に永田小学校に創設されたことがあげられる。設立目的は永田の幼児の生活を楽しく豊かにするためだった。学校の敷地内に作られた結果、幼児学級から小中学校までの子どもたちが自然と年下の子の面倒をみる環境が生まれた。少子化が問題になる現在、子ども同士が様々な年齢の子どもと社会関係を発達させる場として、このような幼年学級から中学校まで連続した社会・教育環境の重要性は高まっていると思われる。
永田小学校のスローガンに「人の子も 我が子も 同じ永田の子」といわれるものがある。今回F.S.さんとのインタビューを通して、このスローガンができた時期や意味をうかがうことができた。このスローガンは、昭和52年に教育指導要領が改訂され「ゆとり教育」という新しい方針のもと、学校も子どもたちの自主性とゆとりのある教育を地域ぐるみ、PTAも含めて新しいものにして行こうという思いのもとで作られた。そして、この精神は永田地区にいる全ての人々に受け継がれ、教育熱心な土地柄として息づいている。
図1 永田の人口変遷
図2 永田小学校の児童数と歴史
明治9年(1876) | 永田簡易小学校創立 島津藩の旧御倉跡を校舎に、富家の児童10人前後が朝夕に読者、習字の二科を講習する寺小屋みたいなものであった。教育に対する規定もなく、父兄も教育の意義をつかめず。 |
明治12年 | 初めて正則小学校として旧御倉跡を学校敷地として板茸校舎を新築。 |
明治13年7月 | 吉田小学校が永田小学校の分校となる。 |
明治20年 | 吉田分校が独立し、簡易科小学校になる。 比較奨励試験制度(各校から選ばれた生徒が試験の成績を競って、上屋久町の一番優秀な生徒を決める試験)を設けて、生徒が勉学に精進し、父兄も勉学の重要性を感じる。 |
明治25年 | 新教育令実施 簡易科小学校を廃し、3年修行の尋常小学校を設ける。女子の就学も見られるようになり、父兄も教育の意義をいくらか理解するようになる。 |
明治27年 | 4年の尋常小学校に増設 |
明治30年10月9日 | 永田人民総会にて、学校改築の事を議し、工事係を選び、敷地を今の学校敷地である下叶の地に選定。 |
10月16日 | 初めて上屋久村各小学校連合屋久島1周の修学旅行が行われた。16日当校出発、18日宮之浦校庭に各学校集合、26日帰省。 |
明治32年12月 | 校舎が新築落成。 |
明治34年 | 改正教育令実施 従来義務教育(尋常小学校)の修行年次4年 読方、綴方、書方を併せて国語科 尋常小学校が2〜4年の高等小学校を併置することができる 尋常補習科を廃し、2年修業の高等小学科を附設 |
明治38年 | 向江地区の子は永田川を、船で渡って登校していた。そのため、河水の氾濫で学校に来れない日や遅刻する日があるということが例年多い事は指摘されていた |
明治40年2月13日 | 7学童遭難 昼ごはんを食べるために帰宅の際、渡航沈没 7名の児童がなくなる。 |
2月15日、16日 | この惨事で、向江父兄は子弟の登校を忌むものが増え、向江に分校設置せんとの議論が始まる。しかし、分校設置は簡単に許可される事ではないため、一切の費用を永田が負担し、村事業で永田橋を架けることが決定。 |
3月 | 着工。 |
5月16日 | 惨事から3ヵ月後。異例の速さでも落成式となる。(木造) |
明治41年 | 小学校令の改正 尋常小学校の修行年数6年 尋常小学校の教科に日本歴史、地理、理科、図画、唱歌を追加。女子は裁縫必須。 高等小学校の修行年数2〜3年 よって、当校は尋常小学校6年、高等学校2年とした。 |
昭和15年 | 永田区は上向江、中向江、下向江、上叶、下叶、新町、浜町の7部落に区分と規定。 |
昭和16年 | 国民学校令 義務教育を初等科6年、高等科2年の8年とする。 |
昭和22年5月1日 | 小学校令施行、永田小学校と改称 |
昭和23年7月10日 | 永田小学校父母と教師の会の発足。 |
昭和35年1月27日 | 永田小学校幼児学級の創設 |
昭和38年4月30日 | 創立以来初めて鹿児島へ修学旅行を実施 |
昭和51年5月29日 | 創立百周年記念式典ならびに祝賀会挙行 |
昭和57年2月 | 永田橋完成(現在のもの) |
平成9年 | 山村留学制度「かめんこ留学」の導入 |
全国各地から広く留学生を募集し、親元を離れ、世界自然遺産屋久島の永田地区の里親と生活し、豊かな自然とふれあい、様々な体験活動を通して心身ともにたくましい子どもたちを育てる。期間は原則的に1年間とする。形態は校区内に児童の保護者と同伴で居住する家族留学と校区内の受け入れ保護者と生活する里親留学がある。
かめんこ留学生の人数は第4期から10人以上に増加した(図3)。その後の人数変化はあまりみられないが、児童数に占める割合は大きくなっている。第1期の時には40人はいた永田の子どもが、第10期には20人以下に半減し、留学生の割合は3分の1以上になった。
図3 学童数と出身地の年変化
かめんこ留学生の出身地で最も多いのが鹿児島県、その次に神奈川県、福岡県である。他にも東京や大阪など、都市部出身者が多い。鹿児島近隣の県に偏ることなく、北海道から沖縄まで広いことは、屋久島が全国的に知名度と人気が高いという理由によると思われる。
図4 かめんこ留学生の出身地
T.H.さん:受け入れ人数2名(小学5年生男児と3年生男児)、受け入れ期間3年。きっかけは実行委員の依頼による。高校生と中学生の実子の了解を得て一昨年5年生男児を預かる。受け入れは1年間の予定だったが、幼児学級勤務で小さい子に慣れているという理由で再度要請を受けた。受験生である実子に了解を得て、今年で2年目になる。初めて受け入れた子が実親の事情により帰省後、本人の希望により母と弟を連れてきたこともある。人様の子供を預かるのは責任があるため大変でもある。全国のあちこちに子どもが増えてくという感じが良い。
H.H.さん:小学5年生から中学3年生までの男児。受け入れ期間6年。開始当初から毎年依頼され、最初はしょうがないかなと預かった。小学校高学年時に預かっていた子が継続を希望して実親を説得し、中学生になった現在も継続して預かっている。
K.I.さん:受け入れ人数2名(5年生男女児各1名)。きっかけはご主人が実行委員で、開始初年度に里親役が足りなかったため、仕方なく不安もあったが預かった。当時、娘さんは6年生だった。今年で2人目を受け入れ、義母と夫婦の4人暮らし。
M.S.さん:受け入れ人数2名(男女児各1名)、受け入れ期間4年。きっかけは3期生受け入れ依頼による。3年間男児を預かり、2、3年後の現在は女児を預かっている。
里親になるきっかけは実行委員会から頼まれて承諾したという方が多い。実子の年齢が近いと「子どもが子どもを育てる」ことがある。基本的に留学生と実子への対応(例:しかる、ほめる)は変わらないようにしているが、やはりよそさまの子どもなので、夜一人にできない、食事に気を配るなど気を遣う面もある。子どもによって全く性格も特性も違うため、里親の役割には慣れることはない。実親が面接時に子どもの病気(喘息など)や非行問題(他動・不登校)を隠しているケースが数例あり、受け入れ後に発覚した。それでも子どもには罪はないので、精一杯の愛情を注ぐという里親の愛情がインタビューを通して感じられた。勉強のサポートは特別にはしないとのことで、屋久島の良いところを体験してほしいと里親たちは考えている。学業や屋久島の自然体験に実親が期待過剰という例もあり、その折り合いについて里親が悩むこともある。実親とコンタクトは取るが、実親の意向により里心がつかないように手紙だけの人や、頻繁に電話をかけてくる人などまちまちであった。かめんこ留学生は食生活やサンダルを履く永田の文化に最初はとまどいながらも次第に慣れていく。かめんこ留学生は永田をこころのふるさとと感じて、帰るときはみんな泣くという。かめんこたちは島を巣立った後も、休みなどを利用して帰ってくる。最後に里親たちは「子どもたちが荒れている、社会が荒れている」と言われがちだが、子どもは子どもであり、自分たちが子ども時代に経験したことをかめんこ留学生にも経験してほしいと述べていた。
かめんこ留学制度を支える実施委員会と里親では意識は少し違うようである。実施委員会が複式学級解消や少子化問題等の永田の将来について考えているのに対して、里親は留学生の視点に近いところに立っているようである。留学生の中には問題を抱えて永田に来ている場合があり、その子と共に問題に取り組む姿勢は、毎日寝食を共にする生活が長期間続く里親だからこそできるのであろう。かめんこ留学制度を陰で支えるのは里親の留学生への愛情であると言っても過言ではない。インタビュー中のほほえましいエピソードや留学生の話をしているときの里親たちの温かいまなざしが、かめんこ留学制度が10年以上も続いている所以ではないだろうかと感じられた。
K.S.さんが2代目の里親実施委員会の会長であり、かめんこ留学生の受け入れ経験があるとの情報をいただいたため、インタビューをお願いした。
かめんこ留学は発足から10年以上経過した現在、制度的に成熟し、全国から多数の応募者が殺到する状況である。これだけ長期間の継続実績があり、多くの留学生を支援してきた制度を確立する過程で、熱心な話し合いや試行錯誤による努力が営まれてきた歴史的経緯の一端をK.S.さんの話からお聴きすることができた。人数バランスの問題やかめんこ留学生自身が抱える問題が開始前に予想外であった理由は、少子化による複式学級化を回避するためという目的から、より多くの子どもたちが永田に来て暮らしてほしいという将来への大きな期待があったためと思われる。広報活動については、経験を元にして効率的に募集できるように改善されている。地元主導の留学制度ではあるが、行政へも参加を呼びかけることで地域のみでなく屋久島全体での教育活動という広く将来性のある視野がうかがえた。
複式学級とは?
複式学級とは、過疎地が学校の規模が小さいときに多く存在し、1学年1クラスではなく2学年で1クラスにする。同じ教室で、学年別に前と後ろに黒板を用意して、背中合わせに学習する学級のこと。
赴任されて2年目で、かめんこ留学生や永田のすばらしさなど多くの話を語ってくださった。
子どもたちはみな純粋で素直である。人数が少ないので一人ひとりに目がいく。ひとりで卒業するのと2、3人で卒業するのでは子どもの将来が違ってくる。かめんこ留学生は永田に自分たちの居場所を見つけている。4、5月はホームシックで保健室を訪れる子もいる。都会に帰ったとき受験勉強や塾通いなどのせかせかした生活が嫌になる。かめんこ留学生はみな屋久島と自然が大好きである。放課後や休みに学校で子どもたちが遊んでいないと「あれ?」と不思議に思う。子どもたちは遠足後に疲れているときでも学校で遊ぶ。夏休みなどで一時的に遊びに来た子も一緒になって学校で遊ぶ。
地元の人はみな親切で家族のような付き合いをしてくれる。道であったらお茶に誘われて必ず子どもたちの話になり、子どもへの熱い思いが話の中から伝わってくる。近所の人が玄関先に野菜を置いていってくれる。地元の人には甘えてばかりで、永田での生活は本当に贅沢と思う。都会では考えられないが、道端を4歳ぐらいの子が一人で歩いていることがある。それだけ地域の人たちが温かい目で見守っているのだろうと思う。
学校の行事で地域のごみ拾い等があるが、地元の子どもたちは一言も「面倒くさい」とか「嫌だ」などと口に出さず、むしろ率先してやっている。かめんこ留学生は最初は嫌そうにしても、地元の子どもたちの姿を見て同じように頑張るようになる。大人も同様で、地元の人が行事を率先して手伝ってくれる。いかだレースでは何も頼まずとも川に入ってレースの監視役をしてくださった。運動会でも地元の方が面倒な係を快く引き受けてくださった。
永田は理想的な教育環境だと思う。永田を離任した先生方もみんな「永田はいいところだよ」とおっしゃっていた。
養護の先生の話からは地域と学校が密接に結びついている様子がよく分かる。学校は地域の協力でいろいろな行事をスムーズに行うことができ、地域も学校の行事に参加することで、結びつきや協力の機会が与えられ、大きく活性化されている。両者が互いを補い合い、理想的な形で機能している。こうした地域と学校との連携により子どもたちは地域の中で安心してのびのびと成長することが出来る。また、このように学校が地域の人々と多く触れ合うことで子どもたちは自分たちの地域の姿にじかに触れる機会が増える。地域の人々が自分たちの学校の行事に進んで協力する姿を見ることは子どもたちに人間関係の大切さや助け合いの精神を学ぶ機会を与えている。
実際にかめんこ留学制度のなかで生活している子どもたちにもインタビューを行った。かめんこ留学生たちは夏休みのためほとんどが帰省中で、なかなか会うことができなかったが、合計13人の子どもたちに質問をすることができた。内訳は中学生9名、小学生3名、幼児1名で、その内、かめんこ留学生2名、元かめんこ留学生2名、永田の子7名、永田外から祖父母のいる永田に来た子2名であった。以下にインタビューの具体的な内容を示す。
インタビューによる子どもたちの印象は、みな純粋で素直な子である。これは他のインフォーマントの話でもしばしば聞かれた言葉で、実際に子どもたちと話すことで改めて実感した。話しぶりもしっかりとはきはきしたもので、中にはこちらの言わんとしている質問内容をくみ取ってくれる子もいた。男の子も女の子も大抵の子は日焼けしており、外遊び中心の生活を送っていることが見て取れた。遊び場所としては学校が中心になることが多いようである。人数が少ないため、子どもたちは、お互い学校に集まって遊んでいた。遊びの内容としては野球やドッジボールなど集団での遊びが見られた。また異年齢の子ども同士も自然にうち解けていた。
永田小学校では都会の小学校よりも行事の数が多い。これは小規模校であるため、各行事をスムーズに行える事や地域住民の協力を得やすいなどの理由が考えられる。一月の間に8つの行事がある月もあり、永田の子どもたちは意外に忙しい。こうした行事は、永田地区の自然や地域の人々とのふれあいを中心にしたものが多く、子どもたちにとっては、いわば体験学習の場ともいえる。行事に参加することで子どもたちはお互いの仲を深め、地域への愛着心を育んでいく。はじめはホームシックに陥りがちだった、かめんこ留学生たちも行事を通して永田の子となじんでいくケースが多いようである。人数が少ないことも、かえってこうした行事を体験学習の場としてより意義深いものにしている。行事ではかめんこ留学生と永田の子の区別なしに、各自が責任を持って役割を果たさなければならない。互いに教えあい、協力し合わなければ、少人数で行事を行うことは不可能である。こうした中で子どもたちには自然と自立心や自主性、社会性、他人を思いやる心といったものが備わっていく。
インタビューの内容から都市部の子どもたちと永田の子どもたちとの交流という側面も見て取れる。全国各地から来たかめんこ留学生たちは、様々な社会的背景下で育った子どもたちで、性格や能力も地元の子どもたちとは異なる多様な面を持っている。永田の子どもたちは、勉強やスポーツの面で都会の子どもたちと競い合うことで、お互い切磋琢磨し、自分たちとは異なった価値観や考え方に触れて、視野を広げ、コミュニケーション能力を高めていく。また、地元の子どもたちにとって永田の自然は、自分たちが生まれたときから身近に存在している、ごく「ありふれた」ものである。こうした豊かな自然の中で育った地元の子どもたちは、永田の自然のすばらしさや、その中で遊べることの貴重性を自覚できる機会は少ない。都会から来たかめんこ留学生たちとふれあうことは、都会の文化、生活、価値観を知り、自分たちの生活環境の良さを見直す良い契機となりうる。
以上から、子どもたちは永田の豊かな自然環境の下でのびのびとたくましく成長し、地域の密接な人間関係、社会体験や里親宅での自立的な生活体験からも多くを学んでいる。また、地域の温かく相互協力的な人間関係は子どもたちの心に大きな教育効果をもたらしている。子どもたちへの「生きる力」や「心の教育」が求められる現代では「かめんこ留学」において見られるいくつかの要素、すなわち異文化交流と相互承認の心の体験、家庭での自立的な生活体験、高齢者を含む地域住民とのふれあい、学校でのふれあいと豊かな人間関係などは子どもたちの心の成長に非常に大きな効果をもたらしている。
永田地区でかめんこ留学制度が始まる前や里親が子ども時代の姿を探るために昭和28年生まれの女性2人(K.M.さん、M.H.さん)、昭和26年生まれの男性1人(Y.O.さん)、丸橋先生の旧友のK.S.さん(男性)にインタビューを行った。以下に主な内容を示す。
昔は親は畑作業で忙しく、子どもたちにはかまっていられなかったので、自分たちのことは自分たちでしなければならなかった。子どもたちも農作業にかり出され、一人で店番をしていた。また、鶏や豚の世話も仕事だった。川で洗濯を終えた後で友達と一緒に水浴びをするなど、遊びと手伝いを一緒にしていた。いすと机で勉強しているような子どもはおらず、家ではあまり勉強していることはなかった。親は忙しくて子どもの勉強までは見ず、姉や兄が勉強を見てくれていた。姉は夕食の下ごしらえをし、母親が帰ってきてから夕食の手伝いをしていた。ほとんど姉が親代わりみたいなものだった。
インフォーントの一人は屋久島の高校卒業後に大阪で就職し、昨年帰郷した。屋久島を出るときに高校の先生が「屋久島は宝の島だ、誇りを持て。」と言ったのが強く印象に残っている。当時は小中学校ともに各学年2クラスずつあり、給食はなかった。中学校では放課後に一時帰宅し、家の仕事を済ませてからクラブ活動に行った。学校帰りに女の子は男の子に追いかけられることもあり、四辻のところで畑の草むらや黄色のルーピン(ルピナス)の花畑に飛び込んで身を隠した。
集落の奥のテイテツ地区にはパルプ工場があり、そこで働く人たちの子どもがよく転校してきたが、卒業前に別の学校に転校していく子も多かった。転校生が来ると、みなわくわくして興味津々だった。迎えに行って数日で仲良くなった。テイテツの子は足腰が強く、勉強は永田の子どもの方が出来た。何人かでテイテツの友達のところまで遊びに行ったことがあるが、帰りは暗くて怖かった。猟師の捕ったシカが木からぶら下がっていたりした。
永田川は今よりもっと深く、河口付近には水神様が居ると言って近寄らなかった。年上の子どもたちから危険な場所などを教えられるうちに、自然に危険への対処の仕方が身に付いた。川で泳ぐときは自分の名前の書いた札を川べりに置き、大人の監視のもとで泳いだ。黄色い旗が出ているときは泳げなかった。川上には川が曲がっていて深くなっている、デイゴというところがあり、たまに男の子が冒険心で泳ぎに行っていた。デイゴには大きなゴマウナギがいた。男の子の同級生同士で土面川を探検したことがある。川に並んでいる船の下を何艘潜れるか競争した。川の下で石を抱えてどこまでいけるか競った。浜では女の子はスカートをまくって箱を持ちながら貝拾いをした。海岸線を歩きながら灯台まで行ったこともある。人さらいに遭うといわれたので浜には一人では行かなかった。
永田川の流れ船にいたずらをして、持ち主にこっぴどく怒られた。自分はでしゃばりだったのでよくたたかれた。畑になっている甘くておいしい柿を盗ろうと川にもぐって畑の裏側にまわって盗ったことがあった。
岳参りのある日には「岳参りのおじゃる日やっどー」と近所を回る声がして、仲の良い友達と何人かで誘って登った。十五夜では相撲や綱引きをしたが、自分は相撲がとても強かった。綱引きでは相手集落のチームが電信柱に綱の端を結んで、いくら引っ張っても引き寄せられず、けんかになった。青年団は子どもたちが焼酎を飲まないか見回っていた。戦後は引揚者が帰ってきたので永田にも人は多かった。
普段は別集落の子どもとはあまり遊ばなかった。昔は学校の近くや川の向こうの集落には行きたくなかった。他の集落には家の用事で行くくらいでほとんど行くことはなかった。集落ごとに対抗意識があって互いに蔑称で呼ぶこともあった。子どもたちにも色々なグループや派閥みたいなものがあった。家の近所の4、5人で遊んだ。友達の家に泊まることも多かった。道路はまだ未舗装で車もあまり通らなかったのでメンコやカッタなどで遊んだ。先生の家にもよく行った。昔は先生もよくビンタをした。友達の家が床屋をしていたので漫画やギターがありたまり場だった。鳥もちを自分で作ってメジロ、ツグミ、ヒヨドリなどを捕まえた。学校の昼休みに仕掛けを見に行った。壊れた家具なども修理してまた使っていた。子どもには子どもの世界というものがあって自分たちのことは自分たちでしていた。昔は子どもにもしなければならない仕事がいっぱいあった。自分は豆腐売りをしていた。ライバルが多く、同じような年の女の子が商売敵だった。自転車に乗って、携帯ラジオをつけて売りに行っていた。畑の横を通るときは携帯ラジオをつけていると、働いている大人の人に後ろめたいので一度ラジオの音を切って通った。今の子どもたちはパソコンなどはよく出来るが、手仕事などの技術の原点が身に付いていないように思う。また、今の子どもたちには自立心が不足しているように感じる。
昔の子どもたちは親の手伝いや下の子の面倒見など、一家の労働も担わなければならず大変だったが、自然の中でたくましく生活していた。現代のかめんこ世代の子どもたちも、都会で生活する子どもたちよりたくましいが、昔の子どもたちはより自然を身近な遊び場としていたことが分かる。こういった風景は永田地区だけでなく日本中いたるところにあったものであり、子どもたちはその中でごく当たり前に自主性や自立心、社会性、人を思いやる心などを身につけていった。インタビューから見えてくる昔の子どもたちの姿と今の永田の子どもたちを見比べてみると、過疎化、核家族化、少子高齢化といった時代の変化の波はやはり永田の子どもたちにも大きな影響を与えているようである。
調査中に意外だったのが、日常の遊びの行動範囲が今の子どもたちより狭かったということである。遊びは近くの家の4、5人の子どもたちで集落ごとに分かれて遊ぶことが多く、遊ぶ場所も家の周囲の道端で遊んでいた。その点、今の永田の子どもたちが集落をこえて、みな学校に集まって遊ぶのと対照的である。こうした子どもたちの姿から昔はコミュニティの中心となる場が集落のいたるところに広がっていた様子が見て取れる。それが過疎化によって次第に消滅していき、学校が地域全体のコミュニティの中心として大きな役割を果たすようになってきたのである。こうした中で過疎化がさらに進み、学校が廃校に追い込まれてしまえば、地域はどうなってしまうのであろうか。地域にとって学校の存続問題は、そのまま地域そのものの存続にも関わる深刻な問題なのである。
今回の屋久島フィールドワーク講座では、永田集落の方々や永田小中学校の教育現場に関わった方々、かめんこ留学生とそのご家族、栗生小中学校の先生から山村留学制度について聴き取るという調査方法を行いました。数多くの方々からお話を長時間お聞きすることができ、また、私たち学生に温かく親切に対応していただき、感謝いたします。
かめんこ留学に関わる様々な方々にお話を聞きたいとの私たちの要望を受けて、かめんこ留学実施委員会の方々や柴勝丸さん、大牟田幸久さんにインフォーマントの選定と日程のアレンジをしていただきました。本当にありがとうございました。
特にお話を直接お聞きすることができました以下の方々にはお名前を順不同で列挙して感謝いたします。大牟田りよ子、大牟田幸星、柴克也、松田幸夫、松田勝弘、川崎和彦、今村よつ子、千切須奈子、日高美智雄、宮下正剛、寺前加奈子、柴甲十朗、鎮守里帆、鎮守こうへい、日高多恵子、日高春代、岩川かつ子、柴茂都子、岩川いづみ、牧富士雄、柴勝丸、正木亜沙子、林文子、田中睦美、留末雄一、大塚健二、河野楓斗、宮崎隆行、正木航太、森一代、日高真弓、大牟田幸久の方々です。
永田でのインタビューや移動時に、冷たい飲み物や手作り料理でもてなしていただいたこともありました。永田では見慣れぬ私たちが小中学校や路地にお邪魔した際にご不審を抱かれた方には心よりお詫び申し上げます。突然の立ち話やその他の機会に多数の方々から教えていただいたことも多々ありましたことを併記して感謝いたします。また、屋久島フィールドワーク講座を企画運営していただいた上屋久町の方々、また直接指導をしてくださった先生方、あるいは私たちが知らない所で、この企画を支えてくださっている方々にも感謝を込めて、今後も屋久島フィールドワーク講座の継続と発展を願っています。
京都大学野生動物研究センター > 屋久島フィールドワーク講座 > 第9回 2007年の活動−人と自然班−報告書
このページの問い合わせ先:京都大学野生動物研究センター 杉浦秀樹