京都大学野生動物研究センター屋久島フィールドワーク講座 >第7回・2005年の活動−人と自然班−報告書

第7回・2005年の活動

人と自然班 − 報告書

屋久島の森林伐採と災害の関係

講師: 黒田末壽・鈴木滋 
協力OG:竹内佑紀
受講生:石坂奈々・伊藤聡史・徳田恭子・渡邉 詩音・東英果(屋久高)

はじめに

 屋久島に足を運んだことのない人は、「もののけ姫」の世界に出てくるような豊かな自然だけを想像しがちである。しかしながら実際には、自然とともに人々も生活しており、古くは縄文時代の石器が、そして日本書紀にも記述が残ることからわかるように、屋久島には人と自然がかかわってきた数千年以上の歴史がある。私たちは屋久島の人と自然の関係について調べるにあたって、人から見た自然を軸として調査を進めることにした。まず、森林という山の恵みを島の人々はどのように利用してきたか、林業は屋久島の人々の暮らしにどんな変化をもたらしたか、また、人の森林利用によって屋久島の自然はどんな変化を被ったのかという問いをたてた。そのうえで、屋久島は地形が急峻なうえに、台風の常襲地であるために、大雨や洪水、土砂災害はなかったのか、人々は災害にどのように対処したのか、森林の伐採は、こうした災害と関連がないのだろうか、という疑問がわいてくる。
 そこで、今回の調査では災害の面から人と自然の関係をみることにした。私たちは屋久島の美しい自然に感嘆しながらも、山の崩落や「土石流跡」(以後、土石流跡には山地の崩落も含む)に注目しながら島中を回った。一度注目してみると、きっと誰もが驚くだろう。山が多く、森に包まれている屋久島・・・その中で、想像以上のたくさんの土石流跡が見られたのである。「いったいどれだけたくさんの土石流が起こったの?」私たちはこの答えを見つけたかったが、限られた期間で島の全ての跡地を数えることはできない。そこで私たちは、際立って数多くの跡地が確認された地区に注目することにした。まずは、昭和46年の土石流で橋が流されてしまった、西部林道地域の半山周辺である。もう一方は島の西北部の永田地区に流れる土面川流域である。こちらでは昭和54年に大きな土石流が起こり、河口部の永田集落に大きな災害をもたらした。この2カ所所の特徴として、半山周辺に広がる森は自然林、土面川周辺は皆伐後に植林が行なわれた人工林ということがあげられる。
 そこで、土面川の災害はどのような様子であったのか。災害に対する意識はどうであったのか、聞き取り調査を行った。私達は地元の方のお話を聞く度に、永田地区に住んでいらっしゃる方々の胸には、この災害は土面川上流の過伐採がもとではないかという思いが強くあると感じるようになった。永田地区の方々は災害が起こる6年前、熊本営林局に伐採の中止を申し出ていたという(柴,2002)。地元住民は望んでいなかったのに木は伐られ、山は削られた。その結果、災害は起こってしまった。なぜ、木は伐られたのか。それを止めることはできなかったのか。そこで私達は、屋久島の林業に興味を持ち、当時、屋久島林産で森林の伐採の指揮を執られていた方にもお話を聞くこととした。

方法

 今回の調査で用いた方法は、土面川と半山川周辺の実地調査、災害に関する聞き取り調査、土面川流域・半山周辺の航空写真解析である。

調査日程
実地調査

 土面川上流での崩落の様子や崩落後に作られた砂防ダムの見学をした。土面川土石流災害の崩落現場まで、伐採地林を登り、土場や、材木搬出に利用したワイヤー跡、雨量計など、付近の植生等から伐採の痕跡をフィールド調査で確認した。土面川流域との対照区として、地質条件が類似し、天然林地域である半山川流域を踏査した。半山川近辺では昭和46年に起きた土石流跡、その当時流されてしまった鉄筋コンクリートの橋を見た。そして伐採後との比較を目的にし、西部林道下の半山集落跡を探索した。また、船行、中間、ヤクスギランド等様々な地域を実際に回り、災害の状況や崩落地の有無などを聞き取りや観察から確認した。その他、島内各集落における災害対策の様子などを調査するために、いくつかの集落を回った。

聞取り

 今回の聞き取り調査では、様々な地域、立場の方々から計10名の方にお話を伺った。協力していただいた方々は土面川沿いに住んでいて、昭和54年の土石流災害の被害にあった方々5名、永田地区2名、林業が盛んな時代に木を伐って生活をしていた中間地区の方1名、その他2名である。そのうち、5名の方は、自宅に訪問し2時間以上にわたってお話を聞いた。訪問聞き取りの方は講座担当者(黒田)が事前に、本講座に以前から協力していただいている柴鐵生さんに紹介していただいた。聞き取りは、災害の状況、土石流、森林施業の実態把握を目的としたが、当時の生活の様子を含んでいる。講座に参加していた地元屋久島高校生にも災害について話を伺った。班員各々が記録した情報の再確認と整理をするために、KJ法を用いた。

航空写真

 航空写真解析は、1975年から2004年までのおよそ5年おきに撮られた航空写真を用いて、自然林の半山川流域と人工林である土面川流域の山地崩落と土石流の発生数を数えて、比較した。使用した写真は、1975年・1980年・1985年・1990年・2004年のもの5回分である。1990年と2004年の間の資料は今回つかわなかった。また航空写真では、崩落跡や土石流跡は白色または明るい灰色をしており、さらに航空写真用スコープを利用すると岩壁との区別がつくため、ほとんどが簡単に判断できる。

  1. 航空写真から崩落地を数える時のルール
    崩落地の数を数える際、調査者ごとの違いが出ないようルールを決めた。
    1. 崩落跡地を数えるとき、前回の航空写真で確認された崩落跡は加算しない。
    2. 崩落の跡地なのか、川岸もしくは林道なのかの区別がつかないときは、他のメンバーにも検討してもらい、それでもはっきりしない場合は加算しない。
    3. 大まかなデータとして、崩れの長さによってレベル分けしてカウントした。100mを基準とし、写真上で推定100m以上の崩れを「大」、それより短いものを「小」とした。
    4. 数箇所から崩れが始まって、途中で合流している崩れについては、始まり箇所の数を数える。
    5. 過去の写真と比べて同じところの崩落だったとしても、跡地の幅が明らかに広がっている場合や、崩落跡の長さが伸びていることが確認された場合は、再び崩落が起きたと推定して、新たな崩落としてカウントした。
  2. 調査対象地の設定
     調査はまず、写真の拡大コピーに調査対象区域の枠を書き込むことから始めた。土面川流域と半山周辺それぞれについて調査範囲を決めるとき、航空写真で確認できる林道や尾根を目印にした。航空写真では、土面川流域の伐採跡地の境目はくっきりわかる。伐採が行なわれた年度が異なると、復活した木の丈が異なり、影のちがいができるためと推測できる。
     土面川の流域と半山周辺で崩落の頻度を比較するために、二つの調査域の広さを近づけることにした。調査域を簡単な図形にかきかえ、その範囲を測定した結果、土面川流域は5,42ku、半山周辺は4,52kuになった。
  3. 100mのモデルの設定
     1枚1枚の写真の縮尺は異なり、崩れのサイズ区別の目安である100mを計算で出すことは手間がかかるので、土面川流域と半山周辺が両方載っている地図を用意し、目印が明確な100mの距離のものを見つけ出した。半山周辺では海岸沿いの陸の形を元に、幅がおよそ100mの凸部分間を基準とした。土面川流域では、林道のある曲がり角から次の曲がり角までがおよそ100mである部分を基準として、崩れのサイズを判断した。実際の地形は傾斜地であるから写真で測った距離より少し長いが、以下にあるように自然林と人工林の崩落頻度の比較という目的にはほとんど影響しないので、傾斜による補正はしなかった。

結果

聞取り
柴 鐵生さんのお話

 柴さんは、永田のご出身で、現在田舎浜の上で民宿を経営されており、元上屋久町議会の町会議員さんである(2005年8月時点、その後議員に復職された)。東京で大学在学中に「屋久島を守る会」を結成、大学卒業を断念して屋久島に戻り、瀬切川右岸の原生林保護などの、屋久島における保護活動の中心的な存在として活躍されてきた。土面川の土石流災害では、土面川本流の北側の支流を流れた土石流が自宅の敷地を通過し、被害に遭われた。その後、国を相手にした損害賠償裁判でも、10年以上の公判期間ずっと原告団の一人として活躍されていた。以下、土面川の現地調査に同行していただいたおりに伺った話をまとめたものである。

 屋久島では国が直接管理している林間と、屋久島森林開発が管轄している林間と、共用林組合が管轄している林間の三つに分かれている。共用林というのは、前岳の部分である里に近い7000町歩であり、地元経済に貢献する林間として地元の人のために優先して使う場所であった。それぞれの共用林は、川から左右50mは保護林として残さなければいけないという、国の施業基準を守らなければいけなかった。しかし、それができるところとできないところがあり、土面川流域に関してはそれができなかった悪い例である。それは共用林であったからかもしれない。共用林では共用林組合が木を払い下げ、それを鹿児島林産とか共栄木材などの民間の会社が買い、施業を行うが、土面川流域に関しては共用林組合と会社の間で国の基準に対して厳しく施業を行わなかったことが挙げられる。ほかの地域と比べてみるとその差はあきらかで、例えば宮之浦では保護林がきちんと残されている。この国の基準というのは、土石流や災害を防ぐために規定されているものなのである。
 屋久島の木を伐っているのは、主に林業公社(共用林組合)であり、それぞれの集落が管轄している。そして立木を払い下げて、会社に売るという中で、ある種の利益が生まれる。企業の計算と実績が違ってくるため、予算にもあまりが出てくる。そういう面で共用林はお金になった。山には価値がないが、それを杉というもので価値のあるものにしようというのが国の方針であるから、伐って売ろうというのが目的ではない。前岳の林間というのは後を豊かにしたいから伐る。パルプ会社は杉ではなく雑木がほしい。国がやるところは国からきた職人だけでは足りないため、民間の人々に資本をやり、会社を作らせる。屋久島の伐採は国が直営でやったところと、資本に任せたところと、地元の人々が関わったところと三つある。このようにして昭和30〜40年の間に伐採は進んだ。
 日本の大きな経済構造の中で言うと、昭和25〜30年くらいにかけて高度経済成長に向かっていく過程で、離島や山村などから若者が都会に出て行った。そして離島や山村では人がいなくなり過疎化が進む。しかし、都会はどんどん豊かになり、それぞれが家を作るようになる。将来を見越して日本の中で木材の蓄積を大きくしていく必要ができる。しかし山は山村にある。山村には人が少ないのに、そこで山をどう豊かにしていくか。そこで国の直轄だけではなく資本に進出させる。また、山村に残っているお年寄りみんなが参加できる組織を作ろうというのが林業公社である。そして過疎化して寂れていく場所に、木を伐ったり植えたりという仕事ができるから意味がある仕事であった。
 ここで重要なのは、林業が木を伐り、木を植え、木を育てるということの循環で成り立っているということ。だから、自然のものを伐り出すのは林業といえない。一気に伐採をするとなると木はすぐには育たないからその木が育つまでに伐ることはできない。日本全体で見ると、ある地域では木を伐り、ある地域では植林をするということで、林業が成り立っているように見えるが、地域単位で見ると林業として成り立っていない。屋久島では昭和30年代に大量伐採をしていたため、今は伐るということがないのだ。

柴 鐵生さん

柴鐵生さんに、土面川の上流域を案内していただき話を伺った。

竹村健二さんのお話

 竹村さん夫妻は永田の土面川の河口沿いの県道に面してお住まいで、かつて永田の共用林での伐採作業にかかわっておられた。土石流の際に、建築中の家が全壊の被害遭われたが、ご自身のご家族は、的確な避難によって命からがら助かったとのことだ。避難中、近所のおばあさんの避難も助けられ、消防から表彰をされている。竹村さんにも柴さんとともに、土面川上流の伐採地域の見学に同行していただいた。

 土面川の川幅は今よりずっと狭く、木がおい茂っていた。国や営林署は、なぜこんなに川幅が広くなって、こんな砂防ダムを作らなければいけなくなるまでに伐採をやめさせなかったのか。川の周りの保護林くらい残してくれればよかったのに。木を伐った後の枝や葉を谷底に捨てる。そうすると雨水を貯めるダムができて、土砂崩れの原因になる。伐採をするときには土場を作り、ワイヤーで大きな木を逆さにして崖を吊るして降ろす。それを繰り返すからその下に溝が出来て集水し崩れる。形があるものは崩れるものだ。このダムだってコンクリートでできているが、それがどのくらいの力を持っているかはわからない。人間も自然も考えればよくわかるが、周りが倒れたら自分も倒れるかもしれない。
 自然の中で、自分たちが生きようと思う中で、外から来た人たちが調査する前に、自然の事を自分たちが調べていかなければいけない。それなのに島の人たちはのんびりしていた。平和な屋久島だから考えることもなく何も行動してこなかった。災害が起こって初めて人が起こした災害か、自然の天災なのか、考えるようになる。それは裁判で争われた。結局は裁判官一人の考えで負けてしまった。

土面川の災害について(竹村健二さん、とみこさん)

 9月30日夜中の二時ごろ、とても明るいので明け方かと思った。雨の落ちる音がポチャポチャと身近に感じた。水が上がってくるくらい大丈夫と思っていたら、聞いたことのない地鳴りがした。これはただ事ではないと思った。家の前の道が川のようになっていたのでロープ一つを持ち、子供の手を引いて逃げた。状況がわからない子供たちは、最初面白がっていた。土面川の勢いがすごく、子供を背負ってロープをつたう。畳の上に自分の母親を乗せて引っ張った人もいた。「自分達はどうなるのかなあ」でも「自分だけじゃない。みんなも同じだから」と自分に言い聞かせた。とみこさんは、健二さんが土石流後の復旧作業に出ている間、家の片付けが大変だった。
 竹村さんは新築の家を建てている途中であり、災害が起こった9月30日に棟上げをする予定であった。しかしその家も資材も流された。災害後、家の基礎を60cm上げて、コンクリートの家を新築した。木からブロック、鉄筋と材を変えた。また、川から離れたところに山小屋を建てた。今も住んでいるコンクリートの家は、家族みんなで作り上げたものである。
 トミ子さんは、災害後、雨が降るとびくびくするようになった。土石流が起こった原因は伐採である。杉は根が浅いため一番危ないし、木の生えている土地が弱いから災害が起こってしまった。伐採が悪いというのではなく、木を伐るならば、おたまですくうように一部ずつ伐ればよいと思う。人気のないところや谷向きの違うところは伐ってもよいし、価値のないものは使い、観光業もいいと思う。でも、残すべきものは残していきたい。皆伐をしても平気という人は、山の下にいて山のことを全然知らない人である。山を歩くとき、木、花、植物の名前を考えること。山を知ることで土の強さもなどもわかってくる。もっと大切なことを見てほしい。

日高重喜さんのお話

 日高さんは、永田の大工さんで、土面川の土石流災害では自宅が被災されている。裁判では原告団の団長さんをつとめ、10年以上にわたる裁判の先頭にたって地元を率いてこられた。いまも、被災した土地にご自分で立て直されたお宅にずっと暮らされている。

 昭和54年9月30日、午前二時ごろ親子三人で寝ていたら水が来たので驚いて畳を上げた。水が上がってきたと思ったらドーンという音がして家が南へ流された感じがした。本当にびっくりした。最初、土石流の水はどこからの水かわからなかった。家の柱は根元からやられ、はりがバーンと割れてしまった。まず、家から脱出しようと思ったのだが、家が傾いているから戸が開かない。水がすでに胸まで来ていたので玄関も開かない。そこで、息子が戸を蹴り破ってようやく外に出ることができた。外に出ると水が首まで来たので、三人で手をつないだ。家の前の通りの向こう側にある石垣まで渡ろうとしたが渡れない。道路の入り口は、流されてきた家でふさがれている。ようやく石垣を乗り越えると水は膝くらいになったのだが、もう辺りには誰もいなかった。ただひたすら高台のほうに行く。その後は親戚の家に向かった。大事なものを持って出る余裕もなく、着の身着のままであった。
 夜が明けて翌朝になると水は引いていた。まずびっくりしたのは、川の近くの家は土地が真っ白になっていて、家全体は浜に流れていたことだ。おかしいなと思ってよく見てみると、家のあったところは砂浜になっていた。あたりにごろごろとした石はなく、水と一緒に流れてきたのは立ち木や流木で、折れたものや根っこが付いているものばかりだった。道路は流木で埋まっていて、家の屋根の高さにまで流木がきていた。外にあった物置までつぶれてしまった。家にあった写真は全部だめになった。だから家には昔の写真が一枚もないんだ。こんなの、一瞬のうちに来るから怖いわな。時間をおいてくるんだったら逃げる余地もあるけれど。でも、これだけの災害が起きたのに死人は一人も出なかった。怪我人も一人くらいだった。
 災害の翌日からは、家が全壊してしまったため寝泊りができないので、川向こうの親戚の家に何日か居させてもらった。なにもする気が起きなかったが、これではいけないと思い、まず物置を作り直しそこで生活を始めた。家の炊事場は鉄筋でできていたのでそのまま使うことができた。なるようになる、そう思った。銀行からお金を500万だけ借りて、すぐに自分の持ち山の伐採にかかる。持ち山は土面川の上のほうではなく、田舎浜のずっと上のほうにあった。家の場所から少し距離があるので、材木を運ぶためにお金がかかった。でも、自分の材だから十分に使える。息子と二人で一ヶ月くらいかけて家を作り上げた。
土石流の被害にあった地区に対して保証などはなかったが、融資制度はあって銀行からお金は借りることができた。あくまで利子つきで借りるということであったが、5%の利子であり当時としては安かった。立ち木や流木の片付けは、他の部落の消防団がきて流木処理等に当たってくれた。だから割と早く片付いた気がする。被災者はとてもじゃないけど、手をつけたくなかった。
 一度土石流は起こったが、まだこの山が崩落する危険性は大いにある。ここは急斜面だし、伐採した跡に造林もした。杉は根っこが浅く、背も高いから台風がきたら揺さぶられ崩壊するかもしれない。
 土面川は土石流が起きる前、とっても狭い川であった。今は川幅を倍にして城壁をつけて丈夫にしているから、土石流がきてもそう心配ではないと思っている。土石流の後は砂防ダムも上の方に築いておるし‥。
 土石流のおかげで国も大分土面川にお金をつぎ込んだ。最初、山を皆伐方式で伐採を始めたからこれじゃあ危ないと思った。私は、土石流が起こる前から皆伐方式はやめてくれと何度も営林省に告知していた。しかし、それは聞いてはくれなかった。裁判も最高裁までいったけど、裁判になったら国には勝てんわな。でも、どうにかして伐採を止めなければいけない、山を守ろうという気持ちがあった。結果的には裁判に負けたけれど、屋久島の山の伐採はなくなった。ここの前岳は、当時は全部伐採区域に入っていた(永田地区の前岳には永田川下流域が含まれる)。でもそれが全部裁判で止まったから。あの裁判が大分国にもこたえたんじゃないかなと思っている。裁判では、土面川の災害について国としては伐採のせいじゃないって言うしかなかったのではないか。日本国中、こういう場所は何箇所もあるから国は負けるわけにはいかなかったから。
 裁判を続けていくのは本当に大変だった。どこからも補助はないし、義捐金が少しあったくらいで大分お金もかかった。裁判の団長をやっていたため、裁判所には裁判のたびに行っていた。月に一回基金を集めて積立金をして、それを裁判に使った。10何年も続いたなあ。
 伐採に関わる仕事をしていた人のなかで、裁判をよく思っていなかったという人は聞かない。災害を受けた人で裁判に加わらなかった人もいたけど、それは金銭的な面と負ける裁判はしたくないという理由からだった。だから裁判において、地元の伐採に関わる人と裁判について意見が食い違うことはなかった。反対に、伐採の仕事をしながら伐採反対運動の署名をしていた人もいた。
 災害の完全な復興には5、6年かかったんじゃないかと思う。土面川周辺の保護林まで伐採が行われて、土石流が起こったということは、これからも伝えていかなければならない。またいつ、こんなことが繰り返されるかわからないからだ。原因が大概わかっているのだから。

日高重喜さん宅での聞き取り

写真:日高重喜さん宅で聞取り。日高さん(正面)と竹村健二さん(左2番目)とはご近所で、土石流のあったときの様子を伺った。障子には浸水の跡が残っていた。



日高津南男さんのお話

 日高津南男さんは屋久島の中間のご出身である。若くして、帝国製鉄の子会社である鹿児島林産にお勤めになり、木炭用の雑木を伐採していらっしゃった。後に、屋久島森林開発のほうに移られ、今度はチップ用の材を伐採されていた。

 屋久島の昔の人は、物がなかったから杉を平木にして搬送していたんですよ。広葉樹なんかは木炭や薪にしとったと思うんです。昔は大きな仕事も工場もないから、林業は低迷していたと思うんです。ほんと、屋久島は企業も何もないし、国有林があるばかりで働く場がなかったんです。
 屋久島はまず、林業から活性化したんだ。林業によって奥地にはいる、奥地に入るために建設業者も林道を作る。とにかく、ほとんどが山に従事した仕事であった。それで何とか仕事のない生活に潤いがついた。その当時、営林署としてはいい屋久杉を安房を主として搬出していた。特に小杉谷は盛んで、屋久杉をトロッコで搬出していた。小杉谷の周辺は今に比べて昔は冬になると雪が本当にひどかった。12、1,2月は仕事がほとんどできないし、山仕事は雨が降ったらできないから一年で200日も働けなかった。まず営林署から山をもらい、大体5,6町歩単位で多ければ10町歩の土地で仕事をしていた。一番大きなときで20町歩のときもあった。屋久島森林開発は、会社自体は工場であった。その中で、うちなんかは山から大木を伐倒して、ロープに木をヘリコプターみたいにして吊り上げて集める。そして、チェーンソーで1mとか2mに切断して、トラックに積んで工場に運ぶという仕事だった。
 その後屋久島には企業がなかったため、広島の帝鉄という会社が工業用の木炭を生産するために一湊の白子山から永田にかけて昭和35〜36年頃入ってきた。鉄の精錬のための炭ですな。炭がようよういかんことなっても、鹿児島林産がつないだんじゃないかなあと思うんです。
 帝鉄の子会社の鹿児島林産は、昭和35年頃には一湊の白子山と永田と中間に工場をたてていました。鹿児島や佐多(岬)方面からようけ人が入ってきて、37,8人居りましたなあ。その人の子等も25人くらいいたんです。一湊とうち(中間)の出身もだいぶ居ったんですよ。それからチップ、十條製紙と王子製紙とかが屋久島森林開発と共栄木材を作ったんです。昭和40年ごろまでで、その当時紙会社の関係で、屋久島森林開発というの会社を作ったんです。その当時、上屋久町には共栄木材、安房には大東海運も同じような会社を設立していました。
 屋久島は山のつながりで潤いがついたんじゃないかと思うんです。うちの屋久島森林開発でも20人近くの従業員を使っていたんですよ。島民のほとんどは山に従事していました。ほんと忙しかったし、たくさん人が居りました。わたしは昭和45?6年ごろ鹿児島林産から屋久島森林開発に移ったんです。それまでは木炭用の材、移ってからはチップ用の広葉樹を伐採していました。伐採地域は営林署が下げ渡した林地でした。当時は営林署なんかも、沢山の良い杉をトロッコで搬出していました。良い杉は営林署が伐っていましたよ。小杉谷には生徒も100人くらい居ったです。その当時は屋久島も雪が積もって、小杉谷なんかの標高の高い所は、ひどいときは12月〜3月4月ころまで仕事ができなかったんですよ。中間でも里まで雪が積もって仕事ができないときもあったんです。多い人でも一年のうち、190日くらいしか山仕事は出来ませんでした。
 私は栗尾の周辺、永田の方面にも宮之浦のほうにも伐採に行きました。だいたい一年に5町歩位、多い時には8-10町歩位は伐りました。20町位やっている時もあったなあ。
 うちなんかは山から入って、伐採して、高架ロープ張ってつり下げて、下の広い所まで下ろして、一括して集めて切断して、トラックで搬送するんですよ。 伐採はユス(イスノキ)とシイが主でした。木の硬い質のやつね。ユスの木なんかは、良いやつは用材に仕上げよったですよ。チップとは別に搬出して、3-4Mに切って用材用にしていました。伐採した後は植林をせねばいかんと営林署の方からいうもんやから、伐採した後は杉を植付けから全部やっていましたよ。沢山伐っていたときは、もう忙しくて忙しくて、女の方でも下働きで頑張ってもらいました。下草狩りなんかを手伝ってもらっとったですよ。屋久島は緑の勢いが強くてすぐ草が伸びるもんだから、あのころは本当に忙しくてね。大きなブームでしたねぇ。昭和47,8年頃から昭和56、7年頃ごろまで続いていました。年間何百町歩単位で伐採が進んでいたから、営林署の職員だけではとても間に合わないんですよ。奥山の方にも狩り出されていました。
 日当はですね。昭和35年頃は大体350円くらいでしたよ。10年くらいたつと700円位になりました。でも、パルプの会社になったら4000から8000円に一気に上がりましたね。パルプの紙会社も屋久島の原木を頼りにしていたから。国としても、なんとか屋久島の山が売れないかなという矢先に株式みたいにして王子製紙とかががチップに刻む工場を設立してというのが始まりだったと思うんですよ。
 その後、伐採量が落ちてきて、昭和57-8年に5町歩位になってきました。自然保護の問題が出てきたのが、このころやね。霧島なんかと一緒に国立公園になった時、屋久島のウイルソン株のあたりは杉を伐りませんよとなったんです。それ以降は私達はそういうことを守りながら屋久島の開発をやってきたんですよ。我々としても一辺にバーと伐らないようにして少しずつ細めて伐って行って長くやろうかということになってきたんです。伐った後はちゃんと植林してね。それからチップもだんだん売れんようになってきてね。原木が国内はとにかくコストが合わないということでね。屋久島森林開発の社長と私が王子製紙まで行って話をしてきたんですよ。
 屋久島森林開発は昭和62年ごろですかねー。王子製紙やらからいらんよといわれて。手引きますということで、チップ工場なんかは地元の大東海運が引き受けてね。めっきり量が少なくなった。残ったのは私と、4,5人の業者だったね。屋久島森林開発作業班が回って植えて、下刈りもして間伐も枝打ちなんかも少しやらされたですよ。奥山の方は搬出ができないから伐り捨て間伐しかできない。里山のほうはマルボウがやっているよ。都会のように(間伐材を)使う業者がたくさんあれば良いですけどね。屋久島は需要が少ないから‥。
 私達は自然破壊ということを、聞けば聞く程苦しい想いをしていたよ。自分達がやっているわけですからね。しかし、山の関係で潤いがついてっていう風に思っておるから。別にねーって思うんですよ。(屋久島が潤ったのは)山のおかげだったって言う印象があるんですよ。(瀬切川右岸の)八本杉の時もね。所長と営林署がどうしても伐るのを待ってくれって言うんですよ。杉の根株から木が生えているのなんて珍しくもないのになと思っていたんです。ただ、倒木の中から出ているのが珍しかったのかなと思うんです。屋久島の山はさすがに広いなーと思ってるんです。こんなのは珍しくもないからね。
 伐採が縮小してしまったことについては、いろいろあったけど、でも、うちとしても良かったのかなと思うんですよ。屋久島一円も潤いを付けて良い切り目だったのかなと思うんですよ。森にとっても伐採は限界であった。今までも河川である、水源地である、という所は残してきたんですよ。そういう所を守りながら、やってきたんです。谷間深い所、保安林防潮林も残さないといけないですからね。土面川の災害については、鉄砲水と地形にもよるんじゃないかな。 広葉樹は伐ってもとにかくばんばん芽が出てくるんですよ。生命力が強いんじゃないかと思うんですよ。だから私は、屋久島は都会みたいに崩れないんだと思います。ユス(イスノキ)とかカシとか、多いんですよ、本当に。ズーとある。広葉樹の方が根が強いからね。それに天然更新の方が早いんですよ。多少の崩れは見られたんですが大きな崩れはないですね。
 伐採をするときに必ずしていたことがある。新しい山に入るときには、まず山の神にお参りし、その日はお休みにする。そして「山に入ります」と心の中で言う。木を伐っていると、中には神様がいるのではないかと思う木もある。そんな木を伐るときには「神様いらっしゃったらよけてください」と心の中で言う。また、木を伐ったら必ず植林をする。きれいにして杉を植え、一度下刈りをし、手入れをする。災害が起こったのは量を考えなかったから。いろんな場所で伐り始めたから悪い。今後は、せっかく植林したのだから100〜200年生きられるように手入れをしていくべきなのだ。
 しかし立派な屋久杉を見ていると「おーい、伐ってくれー。俺は熟しているのに!」と聞こえてくる気がする。このまま腐らせるのが本当によいことなのだろうか。しかし屋久島の杉の需要はもう増えてこない。林業の担い手も出てこない。無理だとも思う。

航空写真による崩落地の分析

 確認できた崩れの数を、表で次のように示す。
半山周辺土面川流域
備考
1975年50121969年との比較
1980年0032631979年台風16号の後
1985年0034
1990年0000
2004年371721撮影前に台風

経年比較した結果を次に表す。

1975年の土石流災害前に撮影

1980年の土石流災害後

写真:分析した航空写真の例。どちらも土面川上流域の同一地域だが、上は1975年の土石流災害前に撮影されたもの、下は1980年の土石流災害後に撮影をされたもの。伐採地、土砂崩れ、土石流跡などが鮮明に見える。(写真は日本森林技術協会より改変)

 同じ年度の結果を比べると、半山周辺に比べ土面川流域の崩落数が明らかに多いことが読み取れる。さらに、土面川流域は半山周辺に比べ、頻繁に崩落が起きていることも確認できる。

伐採跡地の観察

 土面川の崩落跡を見るために、私たちは8月18日に伐採跡地を登った。そこでは伐採作業当時に使われていた高架ワイヤーの残骸を見つけた。斜面の上と下にある木にワイヤーを巻きつけてつなげ、伐った木材を吊り下げて運搬したそうだ。そのとき木材は完全な宙吊りではなく、引きずるようにして運ばれたらしい。原告団は「ワイヤー架線で木を引きずって集材した跡が集水路になり表土の崩落を起こし土石流のもとになった」と主張しており、そのあたりは実際崩落が激しく見られた。裁判では根拠が薄弱であるとして認められなかったが、私たちが見つけた高架ワイヤーの残骸は斜面の上側のもので、ワイヤーが繋がっていた斜面の下側は崩落してなくなっており、私たちは高架跡で谷ではないところが崩れているのを確認した。また、砂防ダム手前で、最近崩落したとわかる大きな岩は、12人がかりで抱えられたことから、直径約8mと推定できた。また、この岩も重さ五百トン以上と概算した。
 土石流跡のなかで、幅が広く木が生えていない所に立ち、川岸の斜面を見てみると、その一帯が大々的に伐採が行なわれた跡地だということがよくわかった。スギが一面に植林されており、自然林との区別は一目瞭然である。あれだけの規模の森が伐られたなんて、島に来る前には考えてもいなかった。さらに、川沿いの森は保護林として、当時から伐採が禁止されていた。私たちが永田集落の方にうかがったのは、川岸の両側50mを残さなければいけなく、土面川の流域はそれが守られなかった悪い例だということであった。後に判例(日本法律情報センター 1987)を読んだところ、保護樹帯として概ね30m、傾斜地では40mの幅員で川沿いや尾根の森を残すように決められていたと記述していた。確かにそれらが守られずに伐採された箇所も確認でき、やはり問題だと感じた。子どものころに砂場などで山崩しの遊びの経験をした人はわかると思うが、山の裾(すそ)や中腹の表面だけを削っても、傾斜のある部分では上から崩れてくるのだ。
 尾根部分や斜面を登るとき、照葉樹など元気に根を張っている木は、斜面を上り下りする際に支えとして利用できた。しっかりと根を張った木々はピクリともせず、ある程度しなることによって自分の体が倒れないようにし、さらに私達の体重を支えながらも堂々と立っていた。ところが伐採が行なわれた当時に伐り倒され、そのまま放置されている木がたくさんあった。放置された木や、伐られて根を張る力を失った木は、支えとなるどころかいつ斜面を転がり落ちていくかわからないほど不安定であった。根は腐り、中はすかすかで、少しの力でも簡単に折れてしまった。このような形として崩れる可能性を秘めている伐採の残骸は、土面川周辺の斜面にまだまだたくさんある。伐採作業の為にそこに残された崩壊要素がたくさん残っているのに、崩れたのは自然の猛威が激しいためだと、自然だけに災害原因を背負わせるのか。
 西部林道脇の崩落現場を見てみると、森の中に崩落地はV字型の谷を刻み、その部分だけが海に直通していた。本当に屋久島が急峻な山地帯であり、ほとんどの地域が土石流発生危険域であることが伺えた。半山1号橋から下流へ50mほど進んだところに、長さ20m、幅4mほどもある、旧半山1号橋を確認した。この橋は1971年の半山川氾濫によって流されたもの、概算して数十トンの重さがある。

土面川上流部の植林地帯を行く調査班

写真:。杉の植林地はこんな傾斜のきついところにも普通にあり、密生している。奥には土面川の河床が白く見え、沢の際まで植林がされていることがわかる。土石流の開始点はこの植林地の上部にある。

土面川土石流をめぐる裁判経過

 森林伐採と山崩れ・土石流の発生の関係については、様々な人が問題としている。実際、1979年の土面川土石流の原因は森林の伐採事業であるとして、土面川の下流域に住む永田の集落の住民たちが中心となり、損害賠償を請求する裁判を起こしているのである。
 1982年、被害を受けた住民ら23名が、土石流災害は、国の上流地域国有林の乱伐に起因するものとして、国に1億6千万円の損害賠償を求めた。提訴まで3年かかった理由は、災害復興が同時進行的に行われていたことと、もうひとつ、町が委託した屋久島災害調査団の災害対策調査報告書の結果を待ったことが挙げられる。この報告書では、山地崩壊と土石流の発生について土面川上流部における伐採地の拡大が主因と指摘していた。報告書は1983年に鹿児島地方裁判所に持ち込まれたが、1987年に国側の主張が全面的に受け入れられる形で「災害の発生と伐採事業には因果関係がなく、台風による豪雨と地質、満潮が重なったもの」として原告の訴えは棄却された。以後、2審3審と住民側は計15年間にもわたり訴えを続けたが同様の理由をもって棄却された。しかしながら、この裁判を契機に、大面積皆伐方式で行われていた国の伐採は止まったという。この裁判中、原告団の方々は月に一度原告団団長の家に集まり裁判費用を集金し、裁判の際は自費で東京へ出向いたとおっしゃっていた。
 住民たちが主張した災害発生の原因はいかのとおりである(日本法律情報センター 1987)。

  1. 土面川上流域の山林で山腹崩壊が発生し、これが土面川に流れ込み河川渓底の不  安定堆積物を巻き込んで土石流となった。
  2. いったん途中に堆積した後、ダムアップ現象を起こして決壊した。
  3. 上記の1・2のいずれかにより土石流が土面川河口付近にまで流下して、控訴人ら同河川沿いの住居を直撃した。
  4. 3のように直撃したものでないとしても、右の土石流により送流された土砂石等が土面川および永田川河口を防いだため、土砂を含んだ濁流が流れて津波のように住居を襲った。
  5. この土石流の引き金となった山腹崩壊とこれに巻き込まれた河川渓底の不安定堆積物は、非控訴人の施業に係る森林の伐採事業に起因するものである。

これに対して、裁判の結果判定された土石流の災害原因は以下の通りである。

  1. 本件豪雨に基づき土面川および永田川河口に疎通能力を越える多量の流水が時を同じくして出現し、同時に流送された土砂石が土面川の土面橋付近を閉塞する結果となった。
  2. 1に加え、河口付近の満潮の時間とほぼ一致するという状況が重なって発生した両河川の溢水氾濫によるもので、洪水である。
  3. 山腹崩壊を引き金として土面川上流で本件土石流が発生したことは認められるが、この崩壊自体、予想できない本件豪雨の来襲と、森林の崩壊抑止機能の及ばない崩壊地の地形、地質を原因とする不可抗力の自然現象(深層崩壊)というべきものである。
  4. 3に加え、これに起因して発生した本件土石流は、中流域で消滅し、土石流が直接河口を閉塞して氾濫を起こさせたと見ることはできない。
  5. 土面橋付近に堆積したとみられる土砂石は、通常の流水の掃流力により流送されたものであるから、土面橋付近あるいはそのやや上流域での超越現象は、通常の河川氾濫となんら変わるところはない。
  6. 1〜5より、今回の災害はいかなる意味においても土石流によるものとは認められない
  7. 仮に本件土石流が洪水に何らかの寄与をしているとしても、本件土石流自体が予見あるいは回避できなかったのであるから、やはり不可抗力というほかはない。

 つまり被害者である住民の訴えは、まるっきり聞き入れてもらえなかったのである。しかし住民の主張は、森を歩いてみればどれも正しいように思えた。

屋久島の林業をめぐる背景

 明治の地租改正の折、政府は全国的に土地の官民の所有区分をおこない、屋久島では8割の森林が国有林に編入された。これによって、それまで島民が入会地として利用していた森も利用できなくなったため、島民が裁判を起こしたが、敗訴に終わった。国は、翌明治 41「屋久島国有林経営の大綱」を策定し、里に近い山林の入会権を認め島民との融和を図った。これは地元では屋久島憲法と呼ばれている。屋久島における林業の始まりから戦前にかけては、屋久島FW講座第2回報告書にある人と自然班のレポートを参照されたい。
 日高津南男さんが伐採をなされていたころは、主に昭和30年代から50年代にかけてである。戦後の屋久島林業は、それ以前は禁伐対象とされていた生木も伐採対象とするとなった昭和28年から、大規模化していく。昭和30年代に入ると、日本の復興と発展のために国有林を活用せよという世論の高まりを背景に、国有林生産増強計画(S33年)が定められ、屋久杉はどんどん伐採されていった。最盛期には年間50町歩単位で木が伐られていたという。これには、それまでの斧と手引き鋸であった伐採がチェーンソーの導入に伴い、伐採能力の 向上が見られたことも大きい。そしてまた、屋久杉ばかりではなく、パルプ需要を背に広葉樹も含めた皆伐が一挙に進んでいく。これは杉の植林も伴う、大規模な造林計画であった(「拡大造林」)。その最盛期、昭和30年代から40年代後半へかけての伐採規模は、屋久島がかつて経験したことのないものであった。しかし一方では、国内の自然保護運動の高まりと共に国有林に対しての国民への権利が主張されはじめ、屋久島の一部(18222ha)は、1964年(昭和39年)に霧島国立公園に編入された。
 しかし、伐採の勢いも昭和40年代末(オイルショックの後)には外材に押され気味になり衰えを見せる。1970年(昭和45年)には周りの木をあらかた刈り尽くした小杉谷の事業所は閉鎖され、小杉谷の住民も一部を除いて皆新しい伐採場所に移っていった。小杉谷の事業所が閉鎖された後、営林署は栗生と荒川に事業所を設け伐採の中心はそちらに移る(津田 1986)。しかし、その後は木材価格の伸び悩みと輸送コストの増加に伴い、営林署の赤字はふくらんでいった。そのころ盛んとなる自然保護運動もそれらを加速させたのかもしれない。段々と伐採規模は縮小され、昭和60年度には皆伐方式が択抜方式に改められた。今、屋久島では木の伐採はおこなわれていない。安房、宮之浦、永田、栗生、と4路線あった森林軌道も、今現在は安房から小杉谷を登る路線のみとなっている。この森林軌道は今、日本で唯一の現役として、屋久杉工芸の素材となる土埋木(江戸時代に伐られた杉の伐株)を運んでいる。  林野庁は15000ha余りの国有林を1992年(平成4年)に森林生態系保護地域に指定し、保護地域には保全地区を取り囲み周辺の環境の変化が保存地区に及ばないようにするとともに自然観察の場としても利用する「保全利用地区」と、まったく伐採しない保存地区にわけた  2世界遺産に登録されたのは、同地域の核にあたる保存地区の森林である。

考察

人々の災害に対する意識

 聞き取りを通し、島の中で立場、地域の違う人の意見を聞いた。そこから得た意見の中にはいくつかの共通の点と異なる点がある。例えば、まず、土面川の災害が起こった原因について日高重喜さん、柴鐵生さん、竹村健二さんは、土面川沿いの地域で過度に伐採を行ったことを挙げている。この点について日高津南男さんは、土面川の災害の原因に伐採もそうだが、地質にも問題があったのではないかと挙げている。この屋久島では、その降水量と、風化花崗岩という地質のために、土石流は頻発している。裁判では国も土面川の災害の原因は伐採ではないと述べている。ここでは、土面川という災害を通してその原因は天災によるものであったのか、人災によるものであったのかという議論が繰り広げられてきた。しかし、林業を行うことによって営まれてきた島の生活の観点から見ると、生きていく上で林業を仕事とするしかなかった、自然があっての自分たちの生活があったという自然への思いには共通点がある。
 土面川などの災害を受けた人々と、集落が川から離れていて、災害の被害を受けたことのない人々の災害に対する意識の違いがある。災害を受けて国を相手に裁判を起こした人たちは、災害を受けていない地域の人々に比べて明らかに崩落地を気にするようになり、砂防ダムに期待し、家の基礎を上げるようになった。また、木を伐ることによって起こりうる災害の可能性についても考えるようになった。土面川流域の人は土石流の後は、雨が降るとびくびく怯える時間を過ごしたり、台風などがあると土石流の話題を出したり、いつも山の様子を見、土石流を意識しているとのことであった。被災した20数名にとっては忘れられないものであり、後世にも語り継がねばならないものであると認識しておられた。
しかしながら、それ以外の地元の方の話を伺うと、土砂崩れは起きていてもほとんど話題に上らない。これは、風化花崗岩の地質が、人が生活する屋久島周縁部まで覆っているのは、永田地区と吉田地区のみであることが影響していると思う。せいぜい林道が通行止めになるなどで、生活圏内で不都合が生じない限り、新聞の紙面に載ることも無ければ、話題にもならないとのことであった。台風がやってきて、大雨・洪水警報が発令されても、バスがとまらない限り学校も休校にならないとのことである。本来、大雨洪水警報の場合、多くの地域では学校は休校の措置をとる。屋久島のような降雨特性の地域では、台風の接近回数も多いためであろう。
 災害が起きたことのない地域の人々の「災害はないよ」という言葉が今まで災害という言葉を意識してこなかった屋久島の姿であったとすれば、一度災害を経験した人々の災害に対する意識は災害を経験したことによって後に変わったといえる。台風の影響や、花崗岩質の地質であり、大量の雨が降るという屋久島特有の自然の中で、災害が島の人々の生活において日常的にあったことが災害意識のあまりない今までの屋久島の姿であったのではないか。それが、島の伐採の歴史、土石流の被害などによってそれは今まで天災としてあった災害が、人災として伐採によって起こりえることであるという意識が生まれてきたからではないかと思う。

伐採と災害の関係
自然林と人工林

 航空写真を使って調査をした結果私たちが一番強く感じたことは、土面川と半山の崩落頻度の大きな差であった。なかでも、私たちがとくに注目したのは、「自然林か人工林か」という点である。半山周辺は昔人が住んでいた痕跡が確認されるものの、伐採が大々的に行なわれたという様子はなく(生活に必要なレベルでは伐られていたかもしれない)、記録にもない。つまりこの周辺は、ほぼ自然林・天然林である。一方、土面川の流域の森林は、1963年以来の広域皆伐方式で伐採が行なわれている。伐採が行なわれた年度は、『第二次国有林野施業実施計画図』(九州森林管理局2001)を見て推定した。この計画図は平成12年に作られたものなので、ここで「35」年前に植林されたと記録されていれば、2005年現在から見れば40年前頃に伐採されたことになる。計画図から確認した結果、土面川周辺の森林(調査対象域)は主に今(2005年現在)から37年前から32年前に伐採が行なわれたとわかった。つまり1965年から1973年ごろである。
 自然林である半山周辺であっても、山崩れは確認される。1975年の写真で確認された崩落跡は5箇所、2004年の写真で新たに確認された崩落は大小合わせて10箇所である。ここから、自然林ではある期間の間隔をおいて崩落が起こるのではないかと考えられる。その期間が過ぎるころには、地盤と木が支えきれなくなるくらいに地表に堆積物が溜まるのではないだろうか。この場合の堆積物とは、木の実、葉、枝、枯れ草、生物の死骸、風化した岩石の砂などが考えられる。このことは、伐採地でも成り立つはずである。伐採地であった土面川流域では、1975年の写真では大小あわせ3箇所、1980年版では95箇所、1985年版で7箇所、2004年版では38箇所の新たな崩壊跡が見られた。自然林で成り立つように思われた一定の周期を待たずして、たびたび土砂の崩落が起きているのだ。これと同じような解析は下川・地頭薗(1987)も行なっている。ここで言いたいのは、自然林に比べ伐採が行なわれた後の人工林では、崩落が起きる可能性が高いのではないかということである。これが問題である。そこで、国土問題研究会(1981)のデータを利用して伐採地と非伐採地の崩壊と土石流の発生率について検討してみたいと思う。

崩壊(個)崩壊発生率(個/km2)土石流(個)
撮影年森林開発区森林非開発区森林開発区森林非開発区森林開発区森林非開発区
1947180.80.2702
1969311.050.4710
197749011.430100
1980196144.861.55321

 これは土面川の流域の中での開発区と非開発区のデータである。つまり、伐採地であるか(この場合林道の建設地も含む)手を加えられていない自然林かという点以外、自然条件(天候・地形・地質)に違いがあるとは考えられない。ここで判読された土石流は全て山地崩壊に起因するもので、山地崩壊箇所数には土石流の発生数も含まれている。1947年と1969年のデータからは、いくつかの崩壊・土石流が確認できるが、その数はさほど多くない。しかし1977年と1980年のデータを読み取ると、急激に崩壊・土石流の発生数が増加していることがわかる。特に森林開発区のデータに注目してほしい。伐採地の崩壊率は、非伐採地の10から30倍近くとなっている。統計的検定はされていないが、その必要はないくらい差が歴然としている。「森林の伐採は明らかに山崩れ発生率を増加させる方向に作用している」(下川・地頭薗1987)という主張の主要な根拠がこれである。ここで確認したいのは、土面川流域の伐採時期は1965年ごろから1973年ごろであるということだ。伐採をし、植林した木々が少しだけ生長したころ、山々は崩壊することが多くなっている。造林・林齢が6?10年で一番崩壊率が高く、壮令林は崩壊が少ないという分析結果も国土問題研究会(1981)で報告されている。また、同報告書には「伐採後の山崩れ面積率は伐採前に比べ、その1.6倍から33倍と大きい値を示している」と指摘があるが、私たちが調査した結果は、これらの分析結果と一致する。

航空写真の分析精度

 表を見ると、1980年の土面川流域の崩落数が飛びぬけて多いことに驚くだろう。あくまで写真からの調査であるので、[誤差]が原因ではないかとも考えられる。間違いなく正確に調査するためには、本物を見て回ることが必要である。  写真による崩落地判定に関しては、ほぼ信頼できるといえる。2004年の写真では、新たな崩落地が両地域で増加しているが、この撮影直前に大きな台風がきておりつじつまが合う。また、国土問題研究会でも航空写真を使った山地崩壊・土石流の分布の分析を行なっており、私たちの分析と、同一年の写真の同様な地域で崩落数を数え、私たちの分析結果に近い数値を出している。
 国土問題研究会の分析方法では、崩壊は個数のみで表現し、規模は考慮していない。(崩落と判定する基準ははっきりとは示していない。ただし、航空写真からの崩落の面積・流下距離の推定を使った分析が報告書後半にある。)崩落地の非伐採、伐採(および伐採後の林齢)を区別している。これらの方法と、私たちの分析方法とは大きな差は見られないように思える。あえて言うならば、分析者がプロかアマかという点が一番の差である。しかし私たちも、一枚の写真の分析(特に1980年の一枚)に長時間かけ正確な値に近づくよう努力した。その結果は、「土面川土石流災害裁判」のときに行なわれた調査団の調査結果(112カ所)と近似値(95カ所)である(日本法律情報センター 1987)。つまり、土面川流域での飛びぬけた数値は誤差のせいではないと考える。

地質の違い

 これについては、屋久島の特徴同様、半山周辺も土面川周辺も風化花崗岩が地盤となっているため地質の違いの影響は考えられない。風化花崗岩というのは字のごとく、年月とともに風化し表面からもろくなっている花崗岩のことである。永田付近の海岸部には花崗閃緑岩が露出している(国土問題研究会 1981)。下川・地頭薗(1987)を参考に詳しく述べると、島の中央部(調査地2ヵ所を含む)を広範囲に占めているのは「屋久島花崗閃緑岩」である。これは斑状黒雲母花崗閃緑岩で数cmの正長石の結晶を特徴的に含む、とあり、私たちは土面川と半山の崩落跡の岩でこの特徴を確認している。上記より、調査地2カ所での地質の違いは特に認められない。

土地傾斜の違い

 傾斜が急な土地ほど崩れやすくなるはずだ。そこで国土問題研究会(1981)を参考に傾斜について調べてみた。土面川流域については「土面川」の項目の値を、半山周辺については、国割岳の西部であることから「国割岳西斜面」の値を参考にした。これによると半山周辺で傾斜が30度以上のところは65.3%、土面川流域では24.6%であり、半山周辺のほうが大きな値を示し急傾斜である。傾斜という点だけを考えるならば半山周辺のほうが崩れやすいはずである。したがって、今回の調査での土面川と半山の差の原因は、急傾斜による効果を覆すほど大きな影響力をもつと考えられる。

裁判結果の検討と今後の問題

 裁判では結局、「台風のすさまじさが予想の範囲を越えていたから、崩れたとしても誰が悪いわけでもない」ということで控訴人の主張は受け入れられなかった。しかしやはり、同じ土面川流域でも伐採地と自然林で崩壊率が明らかに違うという事実を、もう少し問題とするべきだったと思う。物理的・地学的な「法則」や「パターン」にばかり論理の根拠を求め、人が住んでいる上流域で林業を行なっていたという事実と人々の暮らしが存在することを忘れていたように思えた。
 私たちの調査は、伐採と崩れの直接的な関係を解明するまでには至っていない。だが山や川、自然と生きていくならば、今でも度々山が崩れ続けている事実は知っておく必要があるだろう。私たちが崩落現場の真上に立ったとき、その足場は大きくヒビが割れており、あの部分は近々崩落するだろうと思われた。つまり今も、そして今後も土面川上流の山は崩れる危険にさらされていることを実感した。

 砂防ダムの顕著な数の変化や、土面川下流域の護岸工事は、土石流後に、国側の災害に対する意識が変化した結果であると思われる。国としての土石流の対策では、河川の護岸工事とともに、砂防ダムが築かれ、下流域は川幅が数倍にも広げられた。1979年の土石流の後に、それまで2個だった砂防ダムが、土面川の流域に全部で44個作られた。今後さらに21の砂防ダムが計画されている(九州森林管理局私信)。

砂防ダム

写真:砂防ダムの例。ジャングルジムのようなパイプは、大きな岩を止め、水と土砂だけは流す機能をもつ。土石流の勢いをそぐことで被害をくい止めるとされる。土面川の砂防ダムは、種々の新しい工法が投入されている。

 砂防ダムには、上流から流れてくる土砂をコンクリートのみでせき止める形で作られているもの、コンクリート部分に筒状に穴があけられ水が流れるようにしてあるもの、大きな岩だけをせき止める目的でダムの中央部が鉄筋のパイプで立体の柵状に作られているものなどがある。2、3年前に作られたにもかかわらず、すでにその役割を終えようとしている砂防ダムが少なくない。コンクリートのみでできているものは、蓄積した岩や流木がダムを乗り越え始めているのだ。さらに新しい鉄筋のパイプ式のダムは、すでに鉄筋部分がさび始めている。
 裁判は終わった。あなたは「原因は自然だ。対策はした!」「もう大丈夫だ」と胸をなでおろせるのだろうか。

謝辞

 最後に聞き取りに快く応じてくださった、柴鐵生さん、竹村健二・トミ子夫妻、日高重喜さん、日高津南男さん、そしてここに掲載できなかったが、日高琴喜さんに厚くお礼申し上げます。とくに日高津南男さんには、全体の流れからすると批判される立場になることも承知されながら語っていただいたおかげで、屋久島の林業をこれまでにない深みで記述できたことを感謝いたします。
 加えて、さまざまな資料や情報を提供していただいた、上屋久町企画調整課の泊征一郎さんをはじめとするみなさま、環境政策課前任の木原幸治さん、また、鹿児島県熊毛支庁屋久島事務所土木課、屋久島森林環境保全センター、九州森林局計画部の各組織に感謝します。さらに、大川林道で鈴木が壊したレンタカーの牽引回収に夜の10時までつきあっていただいた熊毛レンタカーほかのみなさま、ありがとうございました。

参考資料

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京都大学野生動物研究センター屋久島フィールドワーク講座 > 第7回 2005年の活動−人と自然班−報告書

このページの問い合わせ先:京都大学野生動物研究センター 杉浦秀樹