京都大学霊長類研究所屋久島フィールドワーク講座 > 第6回・2004年の活動−博物館班−報告書 最終更新日:2004年12月20日

第6回・2004年の活動

人と自然班−感想文

受講生の感想文


地域を愛し「地の者」として生きる―屋久島フィールドワーク講座を終えて―
大久保実香

 ぐわぉー。8月24日、朝。私を乗せた屋久島発鹿児島行きの飛行機が、轟音を上げ滑走路を走り始めた。どんどん加速する。周りのものを何もかも振り切って、耳の痛くなるような不協和音をたてて、突き進んでゆく。喉の奥がぎゅうっと締め付けられて、涙がぼろぼろ落ちた。屋久島にこんな速度があったなんて。
 屋久島での何気ない日々の出来事と出会った人々の言葉が、頭の中に蘇れば蘇る程、せつなかった。「屋久島では、時間の流れが違う。まずそのことを理解してほしい。」という塚田さんの言葉。「100年後、200年後は、屋久島はだめになっていることだろう。でも、それからさらに300年もたてば、また豊かな自然のいい森ができていると思う。」という柴さんの言葉。生きてきた長さが想像できないような大木の数々。コケのしっとりとした青で覆いつくされた山奥の石碑。刻一刻と海の色が変わるのを、ただずっと眺めていた時間。海水が塩になってゆくのを待つ間の、ゆったりとした心。出会った人みんなと「こんにちは」をかわすのが当たり前になっていた生活。出かけることなんて滅多に無いし、テレビもラジオも新聞もないけれど、毎日いろんなことがあって、いつも笑っていたこと。わたしが肌で感じてきた、屋久島の時間の流れ。
 でも、飛行機の中で、今こうして感じているのも、同じ屋久島の時間の流れ。もう手遅れだ。この島にこんな速さが生まれた瞬間から、島の運命は決まってしまっていたんだ。展望デッキの上の大勢の人に取り囲まれていた縄文杉、「生水は飲めません」と書かれた看板、大型スーパー流入の陰で失われつつある地元の商店。これも、私が感じてきた、屋久島の真実。この一週間、私達なりに真剣に考えてきて、豊かであるとしか考えていなかった屋久島の自然や伝統的文化が外からの流れに沈みかけているという現実に突き当たった。でも、本当は、「沈みかけている」なんていう生やさしいものではなかったのだ。この島が沈むのは時間の問題。もうどうしようもない。始まってしまった流れを止めることはできない。そんな思いは拭い去れるものなら拭い去りたかった。けれど、時速数百キロで走る飛行機の中、どうしてもできなかった。
 地元ならではのことを大切にした伝統的暮らしと、世界中どこでも均一な都会的な暮らし。どちらの暮らしが「よい」かを決めることなどできないのはわかっている。正直に言えば、屋久島にいる間、24時間営業のコンビニがあればなぁと思ったことが無いわけではない。でも、たくさんの場面で、"ある"がために気付けないでいる、"ない"ことのよさに触れることができたのも事実だ。屋久島に、屋久島の時間の流れがなくなってしまう……。それは嫌だった。
 昼過ぎにはもう、私の実家がある千葉県流山市に着いていた。中学2年で引っ越してきて、高校3年までの5年間を過ごした町。分譲住宅地が今も次々と新築されている、典型的なベッドタウン。新しく「つくばエクスプレス」という電車が開通するため、わずかに残っていた森もなくなりつつある。次の日、たまたまいつもと同じように町をぶらぶらしていたら、今まで目にとまることのなかったものにたくさん出会った。古い家屋や神社、立派な玉葱畑、小さな商店。5年も住んだこの町に、この町らしさがあったことに気付いたのは初めてだった。私はこれまで、この町に愛情を持ったことがただの一度も無かった。田舎とも都会ともいえないどっちつかずの雰囲気が好きになれず、いつか出て行く場としか考えていなかった。しかし、私はこの町を知ろうとしたことがあっただろうか、好きになろうとしたことがあっただろうか。屋久島に屋久島の自然と文化があるのと同様、ここにもここの自然と文化があるという、ごく当たり前のことに初めて気付いた。そして、私の生活がそれらの破壊という犠牲の上に成り立っていることにも、私のすぐそばで今日もそれらが破壊され続けていることにも、初めて気付いた。今住んでいる茨城県つくば市にしても同じこと。つくば研究学園都市は、まさに科学技術推進のため『近代的』に建設された場だ。しかし、そこにもまた、切り捨てられてきたその土地ならではの自然と文化がある。屋久島のように研究対象や世界遺産として、外から価値を見出されることもないだけで。
 伝統がないがしろにされ、人びとの暮らしが『都会的』になる流れが止められない。屋久島だけの話でも、ボルネオのジャングルやその他世界の「自然が残っている」とか「野生生物の宝庫」とかとされている場所だけの話でも、決してない。日本中、世界中で、今もひっそりと同じことがおこっているし、おこってきた結果があちこちに転がっている。神も、伝統文化も、自然も、何もかも、誰からも価値を見出されぬままいつの間にかに消え去っていく。私たちが直面した問題はどれも、屋久島だったから実感できたというだけ。今までもごく身近にあったのに、気付いていなかったに過ぎないのだ。
 私たちは、超都会的な場と、自然を残す場と、両極を地球の中につくろうとしてはいまいか。屋久島が守るべき世界"遺産"となった、とは、裏返せば、他は全世界同じ画一的な流れにのるのが当然であるということ。全体としては合理性、利便性、世界共通を求める一方で、特定の人びとにだけ地元ならではのこと、伝統、文化、自然の大切さを認めることを強いているようなものだ。それではうまくいかないことは、屋久島で痛いほどわかってしまった。『ひとが何を大切にしたいか』『幸せとは何か』はじめから考えなおさなくては。島の人に島のよさを見つめなおしてほしいと感じたならば、私も私の暮らす地域のよさを見つめなおさなければならない。そこにいる人がその地域を愛する。その大切さに今まで気付かずにいた。たとえ一時の住まいだとしても、少なくとも住んでいる間はその場ならではの地元のよさを知り、その地域を愛し、「地の者」として生きる。真に屋久島を守るために必要なのは、島びとの価値観の変化だけではない。地球上に住む私たち一人ひとりの価値観の変化が必要なのだ。そこにしかない小さなことを大切に、という気持ち。それを持たずに合理化、見た目上の利便性を幸せとするのであれば、屋久島にしても、他の世界遺産のような場所にしても、都会で暮らす人の観光地なり次第に俗化されついには消費されつくしてしまうだけ。私たちが今本当に直面しているのは、決して屋久島のような場所だけの問題ではない。もっと身近にある問題だということに一人ひとりが気付かなければいけないのだ。
 屋久島での生活とフィールドワーク講座を通じ、今まで出会ったものの見え方も、これから出会うものの見え方も、随分変わったのではないかと感じている。ひとつ古い殻を脱ぎ捨てて、いま、まだふやふやのままの新しい自分でいるような、そんな気持ち。普段の生活に戻り、様々な点で疑問を感じずにはいられない自分がいる。こうした疑問や矛盾を、見てみぬ振りせず、しっかりと見据え、自分なりに行動していくことができたなら……。
 屋久島でのすべての出会いに対しての恩返しとして。

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みんな違ってみんな変
吉川温子

 この講座で学んだ言葉があります。それは"みんな違ってみんな変"です。安渓先生は、金子みすゞさんの"みんな違ってみんないい"は、なんだか良い子すぎる。本当は"みんな普通"、むしろ"みんな変"なのだと教えてくださいました。変と言われると人は他人より劣っている直すべき所だと否定的に捉えがちだと思います。しかし、みんな変なのだと考えると自分の中に一つや二つダメな所があってもいいではないか。みんな違った価値を持っていて、善し悪しの考え方だって変わってくる。人は他人について、自分自身について、分からない所があるから悩み、知りたいと思うものだと気づくはずです。自分自身を知り、互いに相手を認めることで優しい気持ちになれると思います。講座中、私の心を爽やかにしてくれた、この言葉の力を2つ紹介します。
 一つ目は自分自身のことです。私は言葉を理解したり、行動したりするのに人の2倍の時間がかかってしまいます。そのため普段から早目、早目の行動を心がけているのですが、この鈍臭さは活動中も至る所で目立っていました。皆、手際よく仕事を片付け、すんなりまとめの方法を飲み込んでいく。班のみんなの足を引っ張り、先生の手を煩わせてばかり。どんなに頑張ってもみんなのペースに追いつかない。どうして上手くいかないのだろう。愚かな自分が情けなくて、一人取り残されていくような気がして、できないという事を自分自身素直に認められずに背伸びして焦っていました。それに誰一人、嫌な顔をせず暖かく接してくれたり、とことん指導して下さったりするので、申し訳なかったです。
 こんな私に先生は"ありがとう"と声をかけて下さり、続けて"あなたは自分の時間を持っている。……ゆっくりだけどそれがいい。みんな違ってみんな変なのだから。"とおっしゃいました。なぜだろうと驚きましたが、一生懸命に取り組んでいると認めて下さっていると感じて、嬉しくなりました。先生の広い心に精一杯感謝して、ダメだと縮こまってばかりいても進歩がない。自分を信じよう。何事も前向きに取り組んでいこうと胸に誓いました。 
 2つ目は人と人。互いを認め合う思いやりの大切さについてです。語り手の方から直接、問題の背景や現場の様子を伺う、聞き書き調査を初めて経験しました。語り手の方はどなたも初対面の私たちにも穏やかに積極的に話してくださり、感謝の気持ちで胸がいっぱいです。元鍛冶屋の永野さんが「昔のことを思い出させてくださってありがとうございます。」と、玄関まで私達を見送って下さったこと。元機関士の笠井さんが自分の事を"おっちゃん"と呼び、親しみを込めた優しい表情で質問に答えてくださったことが特に忘れられません。しかし安渓先生が実習初日の晩に配ってくださった先生の著書『島からのことづて』から "聞き書き・調査地被害"を読んで知った、「調査を"する側"が"される側"の気持ちや都合を無視した行動を取り、"される側"が心を痛めてしまう。」ということが気になり、思うように活動に入り込めないところがありました。経験もない私がいきなり聞き書きをしても失礼ではないだろうか。なんだか図々しい感じがして体が強張る思いがありました。
 自然公園に宿泊した夕べ、聞き取り調査についてみんなの感想や先生のお話を聞いて、聞き書き調査は決して"する側"の一方的な利益追求だけではないことに、はっと気づかされました。話を聞いて欲しい。伝えて欲しいと願って、"する側"を信じてくれる"される側"の温かい心。その心に感謝して答える努力をすることで互いの絆を深めて長いお付き合いができるようになる。今、話してくださる方々は私を許してくださっている。考え方をもっと楽に。語られることを素直に受け取ることが大切なのだと知りました。
 また、重要な情報は雑談の中から得られる。"する側"は自分の知っていることしか質問できないことが興味深かったです。風土などにより生活習慣が異なるので、自分の暮らしの知恵が他の地域でも生かせるとは限らない。衣食住の基本になることほど誰もが自分の特殊性に気づきにくく、他人との違いを知ったときの驚きは大きくなるような気がします。
 すぐにはできなくても、正直に前向きに考えてしっかり理解して行けば、役立たずにはならない。時間や物の価値は人によって違うのだから自分らしく過ごせばいい。自分だけがおかしくも正しくもない。みんな変なのだ。そう世界の皆が感じてくれたら、人は優しくなれるのではないだろうか。"みんな違ってみんな変"この言葉が世界に広がれば、隣の人、民族と穏やかな気持ちで共に歩んでいける仲間になる小さな一歩になるのではないかと思います。

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まだまだ日本も捨てたものではない――若者たちとすごした1週間で感じたこと
上勢頭芳徳

 2004年の8月16日から22日まで、一週間の屋久島フィールドワーク講座に参加して、竹富島の地域づくりについて事例紹介してみないか、というお誘いが旧知の安渓遊地さんからありました。実は40年前、学生時代に雪の小杉谷に泊まって写真撮影行をしたことがあるのです。その後世界遺産にまでなっている屋久島。そこで全国公募の学生たちとの合宿生活。なんだか面白そうじゃありませんか。本業が忙しい時ですが、嬉しくなってすぐに誘いに乗ってしまいました。
 セミナー中は、学生たちの旺盛な知識欲には及びもつきませんが、専門の先生方のレクチャーには改めて知的刺激を受けました。それにしても学生さんたちは、夏休みに相当な費用をかけて、高い競争率の論文審査まで受けての参加です。毎朝遅くても6時には起床で、朝食後は昼食を各自が弁当箱に詰めて現地研修へ。一日体と頭を使って、夕食後は食器洗いと片付け、それから報告会や検討会で毎晩0時ころまで議論するという一週間でした。酒も飲まずに目をキラキラさせて、良くできるものだと感心したものでした。昨今暗いニュースが氾濫する中で、こんな若者がいる間はまだまだ日本も捨てたものではないな、と強く心に思いました。おじさんは体力がついていかず、4日目からは居眠りばかりしていましたが。公の出番は8月21日の公開講座での短いお話だったのですが、人と自然班にずっとつきあわせてもらい、博物館コースの学生たちにもお話をし、沖縄出身だったり沖縄の大学で勉強していたりする学生たちもいて、いろいろお話しできたことも収穫でした。
 屋久島訪問の目的の二つ目は世界遺産指定前とそれ以後の屋久島の動きを知ることでした。竹富島でもその歴史的景観と西表島の豊かな自然とを合わせて世界遺産登録を目指すことを考えてきています。屋久島の世界遺産登録に当初から関わってきた人たちや役場の職員のみなさんの話がきけたことは幸いでした。
 三つ目はルーツ探しです。約 600年前竹富島に村建てをした6つのグループのうち、根原金殿(ネーレカンドノ)に率いられた一団は、屋久島から渡ってきたという口碑があります。全身鉄でできた不死身の人だったというのですから、おそらく鍛冶の技術をもった人々だったのでしょう。それで先ず益救神社に参拝し、歴史民俗資料館の山本館長や元鍛冶師の永野さんにも聞き取りの折に聞いてみたのですが、ネーレ金殿の足跡は遥として知れません。講座終了後、鉄のことなら種子島に行けばわかるかもしれないと思って鉄砲館を訪ねてみました。それでも、みなさん首を傾げるばかり。調査とも言えない短い滞在で断言することはできませんが、到着地では伝承も色濃く残るけれど、出発地では忘れられて伝承が残らないものかもしれない、と思い当たりました。
 講座中に自由時間をもらって、20年前に屋久島に渡った旧友を訪ねました。彼が、土地に根付いてエコツアーガイドをやっているのを頼もしく見ました。40年前に一週間雪の中で過ごした思い出の小杉谷も、その時にはまだ発見されていなかった縄文杉も訪れることはできませんでしたが、鍛冶の足跡の探索とともに、近い中に再訪する目標ができました。
 シカイトゥ ミーハイユー(竹富島の方言で、「本当にありがとうございました」)。

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フィールドワーク講座を終えて
浅尾真利子

<変わったかも??>
 「フィールドワーク講座の後から、何か変わった感じがするね」。修士論文執筆の調査の為に以前からお世話になっていた方と、フィールドワーク講座の後にお会いした時にこう言っていただきました。以前よりも、色々なこと(「調査」にとっては、どうでもいいようなことまで)を貪欲に知ろうとしている感じがする、ということでした。自分でも、どんどん質問が飛び出してくる自分に少し驚いていたところでしたので、やはり何かが変わったようです。
 何が変わったのか。それはおそらく、今回のフィールドワーク講座では、一応の「調査目的」はあるものの、そこまでそれを気にすることなく、興味深いお話を沢山聞かせていただいたことと関係していると思います。それまでは「調査」という形でお話を伺うため、どうしてもこちらの「目的」に沿った形での質問になり、それ以外のことは聞きにくく、また答えていただきにくい、という状況でした。そうすると、何か一方的に質問をして終わってしまうことが多々ありました。そんな中で、今回伺った、あっちにいったりこっちにいったりしながら進んでいくお話がとても面白く、そこから多くのことを学ぶことができました。その経験が、「目的」以外のことはあまり聞かない、という態度を変化させることになったのかもしれません。
<フィールドワークとは??>
 屋久島を修士論文の題材に選んだため、今回のフィールドワーク講座を含め、何度か屋久島でインタビューをさせていただいたりしてきました。手探り状態のため、たくさんの人にご迷惑をおかけいたしておりますが・・・。
 その中で感じたことは、まず、フィールドに来るということは、それだけ、多様な情報に触れることができるということです。当たり前のことに聞こえますが、これは重要なことなのだと実感しています。というのも、一見説得的に思われる、たとえば本でよく読むような論理に対し、少し立ち止まって本当なのだろうかと疑うことができるのは、現地に行き、自分で見たり聞いたり感じたりした経験によることが多いからです。ポイントを浮かび上がらせるために捨象されたものに気づくことができるのは、フィールドワークの強みだと感じました。
 一方で、現地から少し距離をおいた、冷静な目で見ることの意味も同時に感じています。今回の屋久島フィールドワーク講座では、私たちは「地域に密着した目」で見ることを体験させていただきました。そして、お話を伺う中で、「色々な要素がからみあっていて、難しいなぁ・・・」と、地域の現実の複雑さにぶつかりました。そのうえで屋久島を離れ、少し屋久島を相対化して見ることにより、複雑な現実に飲み込まれて見えなくなっているもの、もしくは、屋久島という特定の「場所」に視線が釘付けになってしまうことで見えなくなっているものを見ることができるのではないかと感じています。言うは易く行なうは難し、ですが、心がけるようにしていれば、少しは成長できるのではないかなぁ、と勝手に思っています。
<おれいのことば>
 最後になってしまいましたが、朝から晩までスケジュールみっちりの一週間でしたが、とても楽しく過ごすことができました。一週間という短い時間でしたが、それでも何とかまとまったのは、先生方が、私たちから議論を引き出しつつも、ある方向に導いてくださったからだと思います。ありがとうございました。また、どんどん意見が出てくるみなさまのパワー、感受性などに感動しつつ、とても楽しく議論をすることができました。夜はきっちり寝ないとダメなタイプなので、番外編には参加できませんでしたが、それでも十分満喫できました☆せっかくつながった輪なので、これからも、何かしらつながっていられたら、と思います。どうもありがとうございました。

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京都大学野生動物研究センター屋久島フィールドワーク講座 > 第6回 2004年の活動−人と自然班−感想

このページの問い合わせ先:京都大学野生動物研究センター 杉浦秀樹