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第9次訪問団:活動内容報告書

ブータンのGNHを支えるもの

国の豊かさを示す指標としてGDPだけではなく人々の「幸福度」を取り入れようとする動きは、OECDや欧州の先進諸国による国際的な流れである。日本においても2010年に幸福度に関する検討会が立ち上がり、指標づくりを進めている。そのような中ブータンのGNH(Gross National Happiness)はとりわけ注目されている。「世界一幸せな国」という言葉自体は一人歩きしすぎているとはいえ、国民の幸福を複層的な指標で調査し、それを政策に活かそうとする試みは先駆的だ。経済成長イコール国の幸せな発展とする目標設定が発展途上国においてデフォルト化してきた中で、経済発展以外の側面も重視し、文化や精神性あるいは自然環境が失われることがないようにする政策は一つのロールモデルとして機能し始めている。実際昨年12月に行われたアジア太平洋経済カンファレンスでは、多くの国の人たちによる熱視線がブータンによる基調講演に投げかけられていた。

ブータンの人たちは何を幸福の拠り所としているのだろう。これが私の今回の訪問で最も知りたいことだった。到着した時には、正直にいえばインフラの不整備や首都とそれ以外の村の生活格差が気になり、地方部についてものんびりとした農地だという以外の印象を持たなかった。しかしそれでも心惹かれるものが確かにある。その理由について思いを巡らせながら旅を続けた。寺院を訪れ祈る老女、決してたやすいと言えない高地の傾斜面農業に取り組む村人、時間をかけて山道を通学する子ども、赤子を背負いながら農作業をし、あるいは立ち話をする女性たち。悲しくすさんだ眼差しに出会うことはない。私自身、豊かな光り輝く碧色の自然、生活のスローさ、人の温かさと素朴さに、心満たされるようになっていった。

短い滞在ではあったが、多少なりとも実感できたことがある。まず、幸福を支える条件と、幸福を感じる力、この二つは別物であることだ。時に「条件」の上昇が「感じる力」を削いでしまうことさえある。国の政策として条件を整える一方で、幸福を感じる力を減衰させないようにすることは難しい。しかしこのバランスを支える精神的支柱として、この国の場合は仏教が大きな働きをしている。それは右肩上がりの幸福の上昇を求めるのではなく、充足することをよしとする精神世界である。第4代国王自らも、欲望を分母、持っているものを分子としたものが幸福であり、欲望が大きくなれば幸福が低下すると説いているという。また、王立ブータン研究所のダショー・カルマウラ氏は充足に向けての個人の感情コントロール(Emotion Regulation)について言及していた。たとえばブータンでは学校において瞑想の時間を取り入れているが、これは世俗的感情を俯瞰させる効果を持つという。つまりGNHは、要件の社会構造的整備だけではなく、幸福を感じる力を育てることも同時に内包させているといえる。

もう一つはブータンの自然環境並びに二つの大国に挟まれているという地理的要件に対する態度の特殊性である。ブータンは領土や自然を我が物として支配することよりも、共生する道を模索すること、つまり拡大志向ではなく持続可能性を求めようとしている。

自然環境を、隣国との関係を、それぞれ持続可能なものにしながら、一方で幸福の要件を整備し、幸福を感じる力を減衰させないようにする。これはたやすいことではない。しかもいまやブータンでは海外の情報・製品が容易に入手でき、めくるめく「幸福の要件」がつきつけられているのだ。こうした情報により「物を持つ他者」と比較すれば、新しい欲求が芽生えていくことは自明である。こうした欲求とどう折り合いをつけて幸福を追求するのか。多くの国は今その実現に困難を感じている。だからこそ経済的自立と発展を目指しながら、一方で要件の単純な増大ではなく充足を知る精神性を活かしたままにしておこうとするブータンの試みが、今や世界中から注目されているのだ。もしも本当にうまくいくならば、経済発展を続けた先進諸国の今後の行方と方針転換にもつながりうるかもしれない。

日本に帰国してあらためて痛感したのは、日本は幸福を満たすとされる「要件」を、特にインフラ面などに関していえば、圧倒的にブータンより持っているとういことだ。電気が行き渡り、情報を容易に入手でき、医療設備も整っている。文学やメディアも発達している。しかし自分の置かれた現状を評価し、感謝する力、幸福を感じる力についてはどうだろうか。多忙な日常や増大する欲望に支配されてはいないだろか。そして理想と現実とのギャップの中で不満は大きくなる一方ではないのだろうか。

一方でブータンにも大きな過渡期が来ている。近代化は止められない。夜遅くにナイトクラブで西洋の音楽と衣装を身にまとい騒ぐ若者がいる。農地を捨て若者は首都に新しい生活基盤を求めるが、首都ティンプーは失業率も高く、その需要は満たされていない。一方で労働力の多くをインドに依存している。水力発電の開発事業にインド人労働者を多く雇用、そこで得た電力をインドに売る。ブータン全土に仕事も電力も行きわたっていない中で、だ。こうした社会構造の変化の中でブータンがどれだけこれまで多くの国が歩んできたものとは違うビジョンを打ち立て、そこに実際に国民を巻き込んでいけるのか。カルマウラ氏をはじめ、トップリーダーは知識と深い思考によるビジョンを持っており、現在のブータンは非常に頼りになるリーダー達に守られている。今後は彼らの手腕に依存するだけではなく国民全体がこの問題をどうとらえていくのかにかかってくるであろう。そのためには若い世代が多くいるこの国のこれからの教育環境は肝となるのではなかろうか。

ブータンではGNHの新たなるステージとして、幸福感と持続可能性、そして地球資源の公平な分配を目指したモデルの策定行っていくという。そのために世界各国の経済学や心理学などの専門家を巻き込んでのワーキンググループを立ち上げている。幸いにしてその末端に交えてもらえることになり、ブータンの幸福モデルを探る旅は継続できそうである。

最後に、快適な滞在をサポートしてくださったガイドのソナムさん、ドライバーのドルジさん、第9次訪問団のメンバーの皆様、そしてこの実り多き訪問を支援し、実現させてくれた京都大学ブータン友好プログラムに心より感謝申し上げたい。

京都大学こころの未来研究センター 准教授 内田 由紀子