野生動物研究センター発足記念式典 式辞

2008年5月30日

尾池和夫



野生動物研究センターの発足にあたり、京都大学を代表して一言ご挨拶申し上げます。

京都大学は、111年の歴史の中で、自由の学風のもと、さまざまな学問、芸術を生み出してきました。霊長類学もそのひとつです。

霊長類学は、今年で60周年です。1948年12月3日、今西錦司さんが初めて野生ニホンザルの調査を、宮崎県の幸島でおこなった日です。先の大戦から3 年後のことでした。今西さんは46歳、当時、京都大学の無給講師でした。今西さんと行動をともにしたのは、伊谷純一郎さんと川村俊蔵さん2人の京都大学生でした。のちに、ともに京都大学教授になり、霊長類学の興隆に寄与しました。

彼らのとった研究法は、当時としては、きわめてユニークなものでした。サルに名前をつけて個体識別をする、食べものをあたえる「餌付け」、さらには「人付け」をして、警戒心を解かせて近づき、長期にわたって観察記録をつける、このような野外研究の手法は、すぐれて今西さんらの編み出した研究手法です。今では世界標準になり、大型の野生動物を研究するばあいは、必ずといってよいほど、彼らが編み出したこの方法で、世界中の人たちが研究しています。

野生ニホンザルの調査を10年積み重ねて、今西さんと伊谷さんは、初めてアフリカの調査に出かけました。初めはゴリラを目標にし、それからチンパンジーに転じました。1958年でした。

同じ年に、西堀栄三郎さんの率いる南極越冬隊が初めて越冬に成功しました。また、人文科学研究所の桑原武夫さんが隊長として率いる京都大学学士山岳会の隊が、カラコルム・ヒマラヤのチョゴリザ(7654m)に初登頂しました。

今西は霊長類学の確立で、桑原はフランス文学・共同研究で、文化勲章を受章しています。西堀は、真空管を創り、原子力船「むつ」を開発し、品質管理研究をおこしてデミング賞を受賞しました。この今西・西堀・桑原は三高旅行部・京大山岳部の同級生です。

この1958年のアフリカ、南極、ヒマラヤを舞台にした本学の偉業から、今年でちょうど50年ということになります。

伊谷純一郎さんは、2回のアフリカ調査の成果を、岩波新書『ゴリラとピグミーの森』という一書にまとめました。1963年のことです。わたしは地震学という新しい研究の道にすすんでいました。この本がもう少し早く出ていたら、わたしも霊長類学者になっていたかもしれません。ゴリラとピグミーの森を読み返すと、未踏の原野をすすむ爽快感があります。何事もそうでしょうが、「初」と付く事業には、つねにみずみずしいものがあります。

ご縁があって、そのご令息である伊谷原一さんをセンター長に迎えて、野生動物研究センターが発足しました。センターの憲章によれば、絶滅の危機に瀕した野生動物の研究と教育を通じて、「地球社会の調和ある共存に貢献する」とあります。後段の、地球社会の調和ある共存は、京大の掲げる基本理念にあることばでもあります。

ゴリラやチンパンジーの研究では、すでに日本は世界の第一線にあります。そうしたフィールドワークをはじめとした多様な研究の蓄積をいかして、ゾウやサイやイルカやシャチの研究をめざす。大型の野生動物のフィールドワークをする。そこで得られた知見を、京都市動物園や名古屋市東山動物園などと連携して市民の皆さんにお伝えする。それが野生動物研究センターのミッションです。

この式典に先立つ講演会で、センターの教員から、新しい研究の展開について拝聴することができました。野生動物の研究を通じて、野生動物保全学、動物園科学、さらには自然学といった新しい学問領域がうまれ、若い人々がそうした新たな潮流を創り出してくださることを祈念します。

京都大学は、自由の学風を誇りにしています。この時計台はそのシンボルでもあります。時計台は、大正14年、1925年に建てられました。大正デモクラシーという呼び方があるように、2つの世界大戦のあいだにあり、自由とデモクラシーの時代でした。時計台ができた年に、普通選挙が実施されました。25歳以上の成人男子に限られていたとはいえ、自由な民主主義の時代がきたのです。

この時計台にいて、その年のある一日を想像してみることができます。時計台のあるキャンパスには、学生たちの中に22歳、23歳の京都帝国大学生、今西、桑原、西堀がいます。18歳、19歳の第三高等学校生になった湯川、朝永がいます。この吉田の地に、そうした若い知性が道を交差し、20歳前後の魂が、新しい学問を作り出そうとする予兆に満ちた時代です。彼らはこの時計台を見上げ、時計台は彼らを見守ってきました。それは今も変わりません。これからも変わらないことでしょう。

野生動物研究センターが、京都大学が培ってきた自由と自主の学風を引き継いで、さらにそれを発展させてくれることを願って、私のご挨拶といたします。