出典:岩波書店「科学」2008年4月号 Vol.78 No.4
 連載ちびっこチンパンジー 第76回 狩野文浩,田中正之,友永雅己『記憶と情動』

記憶と情動

情動記憶

チンパンジーの「情動記憶」について,最近おこなった実験を紹介しよう。

情動記憶とは,情動を喚起するできごとに対する記憶のことだ。わたしたちヒトを対象とした研究から,この種の記憶は,いつまでも鮮明に残りやすいことが知られている。たとえば通勤途中,数人が言いあらそっている場面と平静に会話している場面の両方をみたとする。あとで思いだしたとき,よりくわしくおぼえているのは前者の場面であることが多い。

進化的な視点から考えてみよう。なぜ情動を喚起するできごとは記憶に残りやすいのだろうか。次のような指摘がある。情動を喚起するできごとは自然界で生き残るために重要だから,それらのできごとを記憶によくとどめておくことは生存競争に有利に働く。だとすれば,情動記憶はヒトだけでなくほかのさまざまな動物にとっても重要であるはずだ。

その点に注目した研究は少ない。これまでの研究はチンパンジーのすぐれた記憶能力を証明し,記憶はヒトの占有物でないことを明らかにしてきた。一方で情動は,進化的に古く単純な現象であると信じられてきたためか,研究対象として見過ごされてきた。しかし,ヒトの研究が示すように,記憶と情動はともに影響しあっている。チンパンジーの記憶の複雑な側面を明らかにするためには,双方に注目した研究が必要だ。

チンパンジーの記憶を調べる

実験方法に,2つの工夫をした。記憶を調べるのに「ことば」が使えれば便利だが,チンパンジーの研究では,それに頼れないので工夫がいる。

1つめの工夫は,「系列再認課題」を用いたこと。この課題では,まず,数枚の写真がスライドショーのように1枚1枚,順に提示される。チンパンジーはその写真系列をすべてみる。みおわったあと,「再認課題」として2枚の写真が提示される。うち1枚は,さきに提示された写真のいずれか,もう1枚は提示されなかった写真だ。前者を選べば正解となる。この手順を繰り返すと,系列の写真それぞれの記憶の残りやすさをテストすることができる。

2つめの工夫は,チンパンジーの闘争場面の写真を用いたこと。情動を喚起する写真には,同種の闘争場面を使うのが効果的だ。彼らはそうした写真に特別な興味を示す。比較のため,チンパンジーが休息している場面の写真も用意した。便宜的に前者を情動的な写真,後者を中立な写真とよぶことにする(図1)。

2つの工夫を組み合わせて,新しい課題をつくった。情動的な写真と中立な写真の記憶を,系列再認課題を用いてテストするのだ。情動的な写真と中立な写真からなる系列,中立な写真のみからなる系列をそれぞれ用意した。前者の情動的な写真と,後者の中立な写真の記憶成績を比べれば,写真の情動的な内容が記憶に与える影響を測ることができる。チンパンジーでもヒトと同様に,情動によって記憶が促進されるのならば,情動的な写真はよりよく記憶されるはずだ。

2個体の子どものチンパンジーがテストに参加した。用いた系列は,情動的な写真1枚と中立な写真3枚から構成される。

図1: 情動的な写真(左)と中立な写真(右) 提供:松沢哲郎

情動的な場面は記憶に残りやすい

実験の結果,チンパンジーのクレオでは,比較した成績のあいだに差がなかった。しかし,パルが情動的な写真によりよい記憶成績を示した。 予想どおりだ。このことから,個体によっては,チンパンジーにおいても情動によって記憶は促進されることが示された。

個体によって異なる結果が生じたのは,写真の見方の違いによるのだろう。たとえば,チンパンジーの写真を,パルはクレオよりも長くみつめていた。パルは,モニタ上に提示された写真を,こぶしで思い切りなぐりつけたこともあった。このような反応をクレオで観察したことはない。パルは,写真の内容をより深く理解していたのかもしれない。

影響は中立な場面の記憶にもおよぶ

先のテストで確認した,情動的な写真の効果を追求するために,もう1つテストをおこなった。系列の写真を4枚から倍の8枚にして,情動的な写真がその前後に提示される中立な写真にどのような影響を与えるかを検討したのだ。パルが続けてテストに参加した。

結果,ふたたびパルは,情動的な写真によりよい記憶成績を示した。さらに,興味深いことに,情動的な写真は,後続する中立な写真に対しても影響を与えた。情動的な写真のすぐあとに提示された中立な写真に対しても,パルはよりよい記憶成績を示したのだ。これは新しい発見だ。類する報告を聞いたことがない。だが,それだけに,結果の意味を解釈するのはむずかしい。1つの解釈として,情動的な写真への強い注意が,後続の中立な写真にも持続的に作用した可能性をあげておこう。

チンパンジーの情動記憶については,まだわからないことが多い。課題に工夫をかさね,さらに研究を進める必要がある。

紹介した研究は,ドイツの科学誌「アニマル・コグニション」(1)に掲載が決まっている。よりくわしい報告はそちらを参照いただきたい。

この記事は, 岩波書店「科学」2008年4月号 Vol.78 No.4  連載ちびっこチンパンジー 第76回『記憶と情動』の内容を転載したものです。