優生思想の論理と現代進化理論の(再)検討 -社会生物学は優生学か?

99/3卒 大出義広

 「人間は動物であり,生き物である。」ほとんどの人はこのことに反対しないだろう。「生物としての人間」を研究の対象とする学問はたくさんある。しかし,人間の「行動」や「社会」などを生物学的研究の対象とすることは,人種改良を目指す優生学や人種差別を擁護するものとして危険視されてきた。しかし,「だから人間の行動や社会に関する生物学的な研究はすべきではない」といえるのだろうか。むしろ,「きちんと」研究し,過ちを繰り返さないような社会体制が必要なのではないだろうか。

そこでまず私は,進化生物学の理論と比較することで,かつての優生思想の論理の明確化を試みた。優生学の創始者であるゴールトン(Francis Galton 1822-1911)の論理をベースにして,他の「優生学的」思想家との関係を考えた。そして,優生思想がその後の人類遺伝学の発展によって,どのように修正されたかを検討した。
 次に,よくみられる「社会生物学は優生思想だ」という批判の妥当性を検討するために,現代進化理論に依拠して動物の行動や社会を研究する社会生物学(Sociobiology)の問題点を検討した。さらに,それが社会心理的にどのような影響を及ぼすのかを考察することにした。

 その結果として私は,ゴールトンの優生思想の要点を次のように整理した。

@ 動物の社会はダーウィンの自然選択理論が働いている。(強者は生き残り,弱者は死んでいくはずだ。)

A 人間も動物であるから「適者生存」の自然選択理論が当てはまる。

B しかし,人間社会では文明化によって(福祉制度などのために)不適者が淘汰されずに生き残るから,集団は好ましくない方向に向う。(自然選択は機能せず,「逆淘汰」が起こる。)

C だから,人為淘汰によって不適者を取り除く,あるいは,より優れた適者をつくりだすための科学的方策である優生学が必要である。(そして,優生学により,より好まれる血統はより好まれない血統に敏速に打ち勝つことができる。)

 重要な点は,いったい「誰が適者なのか」ということである。ダーウィンの自然選択理論によれば,生き残り,子供をたくさん残したものが「適者」であるから,明らかにゴールトンは優生学的に「適者」を再定義したことになる。それがゴールトンにとってはイギリス中産階級であった。そして「適者の再定義」によって優生学と進化生物学は別のものになってしまったといえるだろう。ゴールトンはダーウィンの進化理論を理解できなかったのだ。

1920-30年代になって集団遺伝学が確立されると遺伝や環境という要因をより理論的に扱えるようになり,かつての優生学の偏見や歪んだ考え方は追放されていった。そして生化学・分子生物学の発展によってフェニルケトン尿症や鎌状赤血球貧血症などの出生前診断や遺伝子診断が行われるようになった。これらは「不適者」を,ある「障害」を持った者と定義したものであるという点で(後述する社会生物学よりも)優生思想的な社会影響が懸念される。安易な生命操作に直結せぬよう活発かつ慎重な議論が必要である。

 別の流れとして,集団遺伝学を理論的な根拠にしてネオダーウィニズム(進化の総合説)が生まれ,自然選択理論を生態学に援用するようになった。それは1960年代にはじまり,ウィルソン(E.O.Wilson)の『Sociobiology』(1975)の出版に至って一つの頂点に達した。社会生物学は「包括適応度」や「進化的に安定な戦略(ESS)」などの概念を支柱に生物の行動や生態を研究する学問である。社会生物学が抱える問題点としては,

1. 適応万能論に徹してしまうということ。集団遺伝学では進化(遺伝子頻度の変化)は自然選択だけでおこるものではない。遺伝子頻度は,突然変異や遺伝的浮動などさまざまな要因で変化するものであり,自然選択は一要因でしかない。

2. 行動の遺伝子が同定されていないこと。そのため常に,淘汰への反応に貢献しないような遺伝分散(対立遺伝子の間の優性関係,遺伝子座の間のエピスタシス関係,遺伝子と環境の相互作用等)により理論は厳密になれない。

等が挙げられる。これらは具体的な研究を啓発し誘導するためのに,ブラックボックスとして棚上げされている。しかし(それだからこそ),社会生物学の発見法は人間の行動や社会の研究に新たな視点を与えるものであり,

A) 集団遺伝学・量的遺伝学の理論との接続

B) 進化史的な究極要因と,分子生物学的・生理学的研究等による至近要因の相補的な考慮

C) 社会生物学独自の理論的・実証的研究

を推進することによって,人間行動・人間社会の理解をより促進するものと期待される。


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