連載ちびっこチンパンジーと仲間たち 第182回 山梨裕美『ニイニは見習いベッド職人』
ニイニは見習いベッド職人

空が徐々に暗くなるころ,野生チンパンジーたちは1日の活動を終えて夜の寝支度に入る。オオオオオオオオ……とベッドグラントと呼ばれる声を時折響かせながら,主に樹上で枝をポキポキと折りこんでベッドを作っていく。揺れる枝の上に作られたベッドはふかふかでぐっすり眠れそうだ。こんなふうに,野生ではすべてのチンパンジーがベッドを作る。さらにいうと,チンパンジーだけでなく,すべての大型類人猿,つまりボノボ,ゴリラ,オランウータンもベッドを作る。同じ類人猿の仲間であるテナガザルはベッドを作らない。ベッド作りは大型類人猿の特徴といえる行動だ。
野生由来と,飼育由来のチンパンジー
では,飼育チンパンジーはベッドを作るのだろうか。これまでの先行研究から,野生由来の個体と飼育由来の個体で,作るベッドに違いがあることが報告されている。調べてみると,材料を折りこんでベッドを作る技術を持っているのは,大人のチンパンジーの中では野生由来の個体の一部のみだった。そしてそれぞれのチンパンジーが作るベッドはいつも同じようなもので,大人のチンパンジーではその技術に進歩が見られない。
生息地の破壊や密猟などの影響で,チンパンジーは野生で絶滅の恐れのある動物である。日本は1980年に,通称ワシントン条約という,絶滅の恐れのある動物種の取引に関する条約を批准した。それ以降チンパンジーの取引は大きく制限されたため,野生由来のチンパンジーは日本にやってこなくなった。ということは,野生由来のチンパンジーは35歳以上。チンパンジーの50年ほどの寿命を考えると,野生由来の個体が日本にいる時間はそれほどない。もしかすると,飼育チンパンジーの中からは,きちんとしたベッドを作る技術が失われてしまうかもしれない。
チンパンジーの行動習得
では,チンパンジーはベッド作りをどうやって習得するのだろう。チンパンジーは,生まれた直後はお母さんと一緒のベッドで寝ているが,4~5歳で離乳するころになると,お母さんのベッドの近くに自分でベッドを作って眠るようになる。ただ,主に高い樹上でおこなわれるベッド作り行動の発達を野生で追い続けるのはすごく難しい。
そういうこともあってか,道具使用に関してはたくさんの研究の蓄積があるが,ベッド作りができるようになるまでに何か起きているのかを調べた研究はほとんどなかった。道具使用に関しては,チンパンジーは他個体の行動を見たり,自分で試行錯誤したりしながら新しい行動を習得していくことがわかっている。道具使用よりも複雑な行動であるベッド作りの習得も,同じようなプロセスをたどるのだろうか?そして,習得は飼育下でも可能なのだろうか?
ニイニは見習い職人
そこで京都市動物園のチンパンジーを対象に,ベッド作りの発達の様子について調べてみることにした。京都市動物園には2014年当時,4名の大人のチンパンジーと2013年に同園で生まれたニイニという赤ん坊がいた。幸運なことに,ニイニのお母さんは野生由来で,枝を編み込むスキルを持っていた。また筆者は2013年から同園でチンパンジーの研究をしていたのだが,1歳7カ月頃からニイニが自分の周りに物を置く行動を頻繁に観察するようになった。もしかすると,物理的に練習できる環境さえ整えば,ニイニはベッドが作れるようになるかもしれない。さらに,ニイニがベッドを作れるようになるとしたら今が大事なときなのかもしれないと,そんなニイニの様子から感じた。そこで,同園の飼育担当や工務担当の方々と話しあい,お母さんが夜間枝を編み込んでベッドを作る様子を,ニイニが見ることができるような工夫をすることにした。 2015年2月と5月にベッド作りのための枝を導入しやすくなるような2台の寝台を作製し,屋内運動場に設置した。そこに飼育担当の方が定期的に枝をさしこんでくださることになった。
それから,2016年12月現在で1年と10ヵ月以上の月日が流れた。ニイニのベッド作りのスキルは大いに向上した。最初は枝をうまく編み込むことはできなかったが,今では枝を導入するとまっさきにやってきて,手や足を使って一生懸命折りこんでいる。時々,お母さんや周りの個体の行動を見つめている。そのかいあってか,今や他の飼育由来の大人たちを凌駕し,お母さんに続いて,群れの中で二番手の実力を持っている(図)。こどもの吸収力はすごい。まだ3歳10ヵ月のニイニのスキルはこれからも向上するだろう。
2016年3月に京都大学の座馬耕一郎さんが『チンパンジーは365日ベッドを作る』(ポプラ新書)という本を出版された。その中で,毎日ベッドを作るチンパンジーはベッド職人だと書いている。ニイニはさながら,ベッド職人になるための見習い職人だ。この後,ニイニはおそらく動物園生まれ初のベッド職人になってくれると期待している。なお現在,行動習得のプロセスに関しても面白いことがわかってきている。
動物園で研究する
動物園にいるチンパンジーも,まぎれもないチンパンジーだ。動物園は,さまざまな野生動物たちについて身近に学ぶことができる貴重な研究フィールドである。動物園で人は動物に出会い,楽しみ,学び,そこから研究者は動物に関する新しい知見を得る。ただ動物園は,動物たちが本来適応してきた野生環境とはまったく異なる場所であるため,動物たちも苦労することもあるだろう。研究することが,少しでも動物にとってプラスになる。そしてそこに来る来園者のみなさんがそんな姿を楽しみ,願わくは野生や動物の不思議へと思いをはせる。そんなサイクルが形作られるような研究が展開できればと思う。
謝辞
本取り組みは,京都市動物園生き物・学び研究センターのセンター長・田中正之先生ほか,京都市動物園の皆様と共同でおこなっています。ここに感謝の意を表します。