出典:岩波書店「科学」2009年4月号 Vol.79 No.4
 連載ちびっこチンパンジー 第88回 山梨裕美『時間をかけて食事をする』

時間をかけて食事をする

Image Credit: Yumi Yamanashi
図1: ロープを渡したサンルーム。 それほど広くはないがロープや消防ホースでできたハンモックなどにより複雑な構造になっている

野生からの隔たり

のんびりとして,生存を危険にさらすものはほとんどない。食べ物の心配はなく,遠くまで食べ物を探しに行く必要はない。このような飼育下のチンパンジーの生活は,野生での生活と大きく異なる。

飼育下のチンパンジーでは,食べ物は1日数回,まとめて与えられることが多いため,食べる時間がとても短く,一方でそのほかの時間は休んでばかりいる傾向にある。野生のチンパンジーが,活動している時間の大半(5~6割)を食べ物を探すことと食べることに費やしているのに対し,飼育下のチンパンジーは,同じくらいの時間をただ休息して過ごしているのだ。

忙しい日々を送る,日本に住むわたしは,ときおり長い休みをとって旅に出たくなる。少なくとも日曜日が待ち遠しくなる。しかし,安心や安全を得られても,毎日が日曜日で,食べ物が与えられるのをただ待つ生活はいかがなものだろう。程度の差こそあれ,そんな野生とかけ離れた毎日を送っているチンパンジーは多い。

チンパンジーの心と環境エンリッチメント

このような野生と隔たった生活は,チンパンジーの行動に大きな影響を与えている。飼育チンパンジーの多くが糞を食べる(糞食),食べたものを吐いてもう一度食べる(吐き戻し),毛を抜く(毛抜き)といった風変わりな行動をおこなっており,ひどい場合には自傷行動をするようになる。それぞれの行動の原因は多面的で,特定することは難しいが,刺激の少ない環境がチンパンジーの心の健康を損ねている可能性は否定できない。

動物の心と身体の健康のために,飼育環境に物理的・社会的な工夫を加える試みを環境エンリッチメントという。環境エンリッチメントには,チンパンジーであれば1人きりで飼育するのではなく,同種の仲間と一緒に飼育したり,殺風景な何もない飼育施設ではなく,ロープをわたして立体的に動けるような施設にする(図1)など,大きなものから小さなものまで幅広い工夫の方法がある。各地の動物園や動物の飼育施設に行くと,チンパンジーの生活を少しでもよくしようと,飼育に携わる方々の地道な努力を垣間見ることができる。

これまでの環境エンリッチメントの研究から,一度にたくさんの食べものをただ与えるのではなく,少量を分散して与えたり,食べ物を探させることで採食・探索時間を延ばし,できるだけ野生の生活形態に近づけることに,風変わりな行動を減少させる効果があるとされてきた。

Image Credit: Yoko Sakuraba
図2: 木の枝を口にくわえるアキラ。 撮影: 櫻庭陽子

草を探して食べる

2009年1月から環境エンリッチメントの1つとして,これまで与えてきた果実や野菜などの食べ物に加え,草や木の枝を毎日与えることにした。お昼ご飯のあとに木の枝を与え,また,外のサンルームに草をまき,チンパンジーが草を探しながら食べることができるようにした。草や木はカロリーが低く,これまでの食べ物に加えても,太りすぎさせることがない。また,果物に比べてたんぱく質も豊富なため,栄養面からみてもよい。

昼ご飯が終わるやいなや,チンパンジーたちはわれ先にと外に走っていくようになった。オッオッとチンパンジー特有の声を出して興奮しながら,草や木を食べる(図2)。チンパンジーによっては,堅い樹皮や枝の部分まで食べていた。昼食後の行動を毎日2時間観察した結果,草や木がない場合と比較して,休息時間が減少し,食べたり,草を探したりする時間が1時間ほど延びた。ほかにも,木の枝でベッドをつくるなど,行動のバリエーションも増え,活発な様子が観察できるようになった。

アユムの変化

アユムに大きな変化があった。1月に草や木の枝を与えられてから,それまで昼食後に頻繁におこなっていた吐き戻しを,ぱったりしなくなったのだ。草や木を食後に好きなだけ食べることができて満足感が得られたことや,繊維質のものがお腹の中に多くなったことで,吐き戻しをしづらくなったことが関係していると考えられる。さらに,午後の勉強中の吐き戻しも減り,画面をじっとみて勉強に集中する時間が長くなった。この変化を研究者,飼育者みんなで喜んだ。

チンパンジーのためならず?

おいしい草や木の枝をめぐって,ちょっとしたやりとりが繰り広げられることもあった。

ある日,アユムがお父さんのアキラのもつ木の枝をねらってオェーオェーと得意の声でおねだりをしていた。アキラは目を合わさないようにしていたが,あまりのしつこさに根負けして,結局木の枝を与えた。また別の日にはクレオが外に出て,草を片手にもちきれんばかりに拾うと,お母さんのクロエがやってきた。クロエは周りにまだ落ちているにも拘らず,クレオの手の草をむんずとつかんだ。 クレオは必死に取られまいとしたが, 結局クロエに引きちぎられて,手にはちょこっとしか残らなかった。チンパンジーの親は,かわいいわが子だからといって,すすんで食べ物を与えたりしない。ヒトのように子どもがおいしそうに食べる姿を見てうれしくなることはないのだろう。関係性は異なれど,わたしたちにとっては,チンパンジーが生き生きと食べ物を探したり,遊んだりする姿を見るのは本当にうれしいものだ。ある意味,そんなヒトらしい感情が,ヒトをして環境エンリッチメントたらしめるのだろう。

この記事は, 岩波書店「科学」2009年4月号 Vol.79 No.4  連載ちびっこチンパンジー 第88回『時間をかけて食事をする』の内容を転載したものです。