出典:岩波書店「科学」2006年7月号 Vol.76 No.7
 連載ちびっこチンパンジー 第55回 山本真也『情けは人のためならず』

情けは人のためならず

図1: おとな2個体の場面. マリ(右)が投入しようとすると ゴン(左) が餌箱に手を置いてリンゴが出てくるのを待っている. 図2: アイ(左)にコインを渡そうとするアユム(右)

互恵性の進化

人間は支えあって生きている。ブランコで背中を押してもらったから,今度は押してあげる。昨日仕事を手伝ってもらったから,今日は手伝ってあげる。 このように,相手のためになる行為を互いにやりとりして協力関係を築くことができる。「持ちつ持たれつ」の関係である。このような関係を互恵性と呼ぶ。

互恵性を他者と築くためには,一時的に自分がコストを払わなければならない。人間は,直接は自分の利益にならないこと,つまり相手のためになることをする。親子のような血縁がない者の間で,どうしてそのような行動が進化してきたのだろう。ひとつの説明として,一時的には自分が損をしても,将来,相手がお返しをしてくれることで,自分も利益を得られることがあげられる。

背中の掻きあいっこを考えてみよう。背中を掻いてあげる側のコストは小さいが,掻いてもらう側はかゆみがとれ利益が大きい。この場合,個々人が自分のことだけを考えて行動するよりも,互いに協力して交互に掻きあったほうが,2人とも利益が大きくなる。ことわざにもあるように,相手に情けをかけることは,めぐりめぐって自分のためになる。その瞬間は自分に損でも,長い目でみれば得になる。これが互恵性の要点である。

ただし,互恵性を成立させるには,特定の相手と密な関係が築かれる社会や,互いを識別し過去のやりとりを記憶する認知能力も必要とされる。そして,一時的とはいえ,自分が損をする状況をがまんできなければならない。

人間同様,チンパンジーは高度な認知能力をもち,他者と濃密な社会関係をもちながら暮らしている。彼らは互恵性を,仲間どうしで築くことができるのだろうか。コインとリンゴを用いた実験で調べた。

互恵的にコインを投入するか

霊長類研究所のチンパンジーたちは,コインを使って自動販売機でリンゴを買うことを,すでに学習している。そこで,隣接する2つの小部屋に自動販売機を1台ずつ設置した。投入口にコインを入れるとリンゴが出てくる。ただし,リンゴは投入した小部屋ではなく,隣の小部屋に出てくるようにした。つまり,コインを投入しても自分ではリンゴをとれず,相手がとる。2つの小部屋に1個体ずつ入れ,交互にコインを1枚ずつ与えた。組み合わせは,血縁関係のないおとな2個体の場合と,母子の場合だ。

おとな2個体のペアでは互恵性が成立した。2個体が交互にコインを投入しあい,互いに報酬を獲得することができた。場面を理解せずに,ただただ投入していたわけではない。相手がリンゴを食べるのをじっと見たり,相手が投入しようとすると,餌箱に手を置いてリンゴが出てくるのを待ったりした(図1)。自分がコインを投入すると相手がリンゴを得て,相手がコインを投入すると自分がリンゴを得る。そのことを理解していたといえる。投入するまでに時間がかかる,投入せずにコインを床にこすりつける,あるいはコインを小部屋の外に捨ててしまうといった行動も見られた。自分が働いたのに相手がリンゴを食べるということを快く思っていなかったのかもしれない。それでも,互恵性が崩れてしまうことはなかった。

ところが,母子では違う結果になった。母子間では互恵性が成立しなかったのだ。母子ともにコイン投入をやめてしまった。つまり, 2人とも報酬を獲得することができなかった。

先に投入しなくなったのは子どもだった。コインを母親に手渡したり(図2),外に捨ててしまったりした。自分が報酬を得るには相手がコインを投入しないといけない。コインを渡して相手に投入させようとしたことからみても,このことは理解していたようだ。しかし,相手に投入してもらう前に,まず自分が投入することはなかった。相手のために何かをやることが自分の利益に結びつくという考えをもつことは,チンパンジーの子どもにとってむずかしいのかもしれない。

互恵性を学ぶ

人間は,社会経験を重ねるうちに社会行動を変化させる。経験や学習を通して社会的なルールを身につける。おもちゃを独り占めにしてほかの子を泣かせてしまう子どもがいる。しかし,このような子どもは,自分がおもちゃをもっていないとき,ほかの子どもからおもちゃを分けてもらえにくくなるだろう。このような経験を通し,子どもは社会性を身につけていく。

チンパンジーも同じではないだろうか。チンパンジーのおとな2個体は互恵性を継続させることができたが,母子は継続させることができなかった。自分が得をする前には,一時的に自分が損をする状況をがまんしなければならない。チンパンジーの母子, とくに子どもにはこのがまんができなかったようだ。

6歳になる今も,子どもたちは母親に守られている。まだ乳首に吸いついている。フーッというか細い声を出せば, 母親が急いでやってくる。母親に守られ,利己的な行動に走りがちな,ちびっこチンパンジーたちだが,今後,独り立ちをし,社会生活を営むうちに,互恵性という術を学んでいくのかもしれない。

この記事は, 岩波書店「科学」2006年7月号 Vol.76 No.7  連載ちびっこチンパンジー 第55回『情けは人のためならず』の内容を転載したものです。