出典:岩波書店「科学」2005年1月号 Vol.75 No.1
 連載ちびっこチンパンジー 第37回 山本真也『コインをめぐる駆け引き』

コインをめぐる駆け引き

Image Credit: Shinya Yamamoto
図1: 向かい合ってコインを拾う母子,アイとアユム

コインでリンゴを買う

チンパンジーがコイン(百円玉)でリンゴを買っている。自動販売機の投入口にコインを1枚入れ,ボタンを押すとリンゴをひとかけらもらえる。コインはプレイルームの床に落ちているので,彼らはただ拾うだけで良い。コインを拾い,自動販売機まで持っていき,入れて,ボタンを押す。彼らはこの一連の手続き自体はすんなりこなせる。ただし問題がひとつある。それは相手がいるということだ。部屋には2個体同時に入れられる。そのため,のんびりしていると相手にコインを全部取られてしまう。そこに相手との駆け引きが生じる。2個体間には優劣関係や親子関係がある。相手に応じて駆け引きも変わる。

欲しいものを前にしたとき,チンパンジーはどのように社会的知性を使い,どのような駆け引きをするのか。コインを使って詳しく調べようと思った。コインには,「他のものと交換できる」,「持ち運べる」,「貯蓄できる」,などの性質がある。コインは床に40枚落ちている。しかも拾ったあと自動販売機まで持っていかなければならない。このような状況下では,たとえ優位個体でもコインを独占することはなかなかむずかしい。劣位個体にもチャンスがある。優位個体と劣位個体は,どのようにしてコインを取り合うのだろう。それが母親と子どもだったらどうなるのだろう。

プレイルームでの実験

実験に参加してくれたのは,アキラ,ゴン,マリ,ペンデーサのおとな4個体と,アイ-アユム,クロエ-クレオ,パン-パルの母子3組である。自動販売機は,30m2ほどのプレイルームの2カ所,北側の壁と東側の壁に約4m離れてついている。そのちょうど真ん中に,あらかじめコインを40枚ばらまいておいた。2個体が部屋に入ってから最後のコインを使い終わるまで,それを1セッションとした。この間,3台のビデオカメラで彼らの行動を記録した。

子どものパルとクレオを除けば,みんな1日目からコインを使ってリンゴを買えるようになった。ただ,個体ごとに巧拙はある。おとな4個体にかんしては,最初の10日間は1個体ずつ個別に訓練をした。母子にかんしても,子どもが場面に慣れるまで数日間訓練した。訓練後はみんな不自由なくリンゴを買えるようになった。

2個体が部屋に入ると,さまざまなやりとりが見られた。まず,おとな同士だとあいさつは欠かせない。入ってすぐはコインなどそっちのけである。ペンデーサなどは,人間なら鬱陶しいくらいにあいさつをする。ひととおりあいさつが済むと,ようやくコインを拾い始めた。優位個体の完全な独占というものはほとんど起こらない。女性や子どもといった劣位な個体でも,2割か3割はコインを手に入れることができた。しかし,ただ拾っているだけではない。そこに駆け引きがある。

Credit: Shinya Yamamoto
図2: 自動販売機でリンゴを買うアユム.

おとなの駆け引き,母子の駆け引き

おとなの女性は,男性の近くでコインをあまり拾おうとはしなかった。女性が男性に対して劣位だからだ。そして,男性がそばにいるにもかかわらず拾うときには,ほとんどの場合,男性に背を向けて拾っていた。向かい合っては拾わない。コインを拾うところを見られないよう,自分の体を壁にして相手の視線をさえぎっているのだろうか。それとも,恐い相手をできるだけ見ないようにしているのだろうか。ちなみに,子どもは母親と顔をつき合わせて拾っていた(図1)。背を向けることの意味を調べるのは今後の課題だが,おとなと子どもでは明らかに違いがあるようだ。

違いはほかにもある。おとな同士では,一度手の中に収まったコインに対してはいっさい干渉しない。たとえ優位な男性でも,女性が手に入れたコインを使ってリンゴを買うのをただ見ている。だが,母子では違う。たとえば子どもがコインを投入した直後に,母親がやってきて子どもを追い払う。よく追い払うのは母親アイだ。息子アユムがコインを投入するのを待って,追い払って横取りする行動も見られた。

コインを渡してなだめる

こう書くとアイがとても怖い母親のようだが,最近,正反対の顔も見られた。アイが息子アユムに対して,手に持っていたコインを分け与えたのである。手持ちのコインを使い切ったアユムが,アイに近づき,心細げな泣き声をあげながら右手を差し出した。すると,アイは左手に持っていたたくさんのコインを右手に持ち替え,4枚のコインをアユムの右手に落とした。するとアユムはさらに左手も差し出した。アイはさらに1枚を落とした。その後,アイは残りのコインでリンゴを買い続け,アユムはもう一方の自動販売機に移動してリンゴを買った(図2)。いままでにも,食物が母から子へ分配されることは知られている。しかし今回は,それがコインで見られた。コインの価値を彼らが理解していることの証拠でもある。

チンパンジーにとって,コインはリンゴと交換できる大切なものだ。できるだけたくさん手に入れようとする。しかし,1枚のコインを力ずくで奪いとるようなことはなかった。腕力で解決するのではなく,さまざまな社会的交渉を通して駆け引きしている。私たち人間同様,複雑な社会生活を営むチンパンジーたち。今後も,彼らの高い社会的知性を切り口に,少しでもチンパンジーの世界をのぞけたらと思っている。

この記事は, 岩波書店「科学」2005年1月号 Vol.75 No.1  連載ちびっこチンパンジー 第37回『コインをめぐる駆け引き』の内容を転載したものです。