出典:岩波書店「科学」2002年1月号 Vol.72 No.1
 連載ちびっこチンパンジー 第1回 平田聡・松沢哲郎『母と子のコミュニケーション』

母と子のコミュニケーション

2000年の4月,6月,8月に生まれたアユムとクレオとパル。3人のチンパンジーの子どもたちは無事に育って, 1歳半ころになっている。母親のアイ,クロエ,パンも元気だ。彼女たちの子育てぶりはしっかり板につき,3人とも立派な母になった。出産前,育児拒否をしないだろうかと周囲の人々が本気で心配していたのが嘘のようだ。

図1: 野生チンパンジーの母親(ジレ)が樹上で自分の子ども(ジャ)に手をさし伸べて引き寄せる。 子どもにとっては枝の間隔が広すぎて,母親の補助が必姿だ。撮影松沢哲郎

アイ,クロエ,パンの最近の姿を見ていると,野生チンパンジーの母親の姿と重なって見える。森の中で木から木へと移動する野生チンパンジーでは,母親が子どもに手をさし伸べる光景がたびたび見られる。子どもにとって枝と枝の間隔が広すぎて手が届かないとき,母親は子どもに手をさし伸べて引き寄せてやる(図1)。運動能力が未熟な子どもの移動を助けることも,大切な子育てのひとつである。研究所の3人の母親も,野生チンパンジーがするのとまったく同じように,子どもの移動を手助けするようになった。

アイ,クロエ,パンともに,多少の個人差はあったが,出産直後は今のような立派な母親ではなかった。どうしてよいのか分からないといった様子も頻繁に見られた。上達した背景には,まず子どもによる働きかけと,それに対する母親の働きかけがあった。「母子間のコミュニケーション」と言い換えてもよい。母の乳首に口が届かなくて子どもが「フーフー」と泣くと,抱き方を変えてみる。子どもが母親から離れて不安になって泣くと,急いで子どもを抱きに行く。最初はそんな風に,子どもが発する音声に対して,母親が応じる場面がよく見られた。

図2: 母親のパンが,子どものパルに手を差し出す。パルは地上にいる。パンは地面から少し高い棚とロープに乗っている。母が手を差し出したのを見て,パルはその手につかまり,棚に乗せてもらった。撮影: 魚住みどり

母の気配り

子どもたちが成長するにつれて,動作を介したコミュニケーションが見られるようになってきた。母子で一緒に移動する場面が好例だろう。子どもたちは,徐々に母親から離れて,単独で移動する範囲を広げていく。それでもまだ,小さな体にとって大きな運動場を自由自在に移動することはむずかしい。母親たちは,遠距離を移動するときは決まって子どもをお腹に抱いたり背中に乗せたりして一緒に移動する。

移動を始める前,子どもが少し離れているときには,まず母親が子どもに手を差し出す。すると子どもが手につかまりにくる(図2)。 あるいは,母親が子どもに背中を向けて腰を落とすと,子どもが背中に乗る。母親が子どもを軽くっつくと,子どもが背中に乗りにくる。手を差し出したり,腰を落として背中を向けたり,つついたりするのは,母親から子どもに向けられた一種の合図だ。子どもは合図に応えて母親の元に戻る。きわめて単純なパターンだが,一方の行動が他方の行動を生じさせるという意味で,身ぶりによるコミュニケーションといえるだろう。

これとは逆に,子どもが発したしぐさに母親が応じることもよくある。子どもが母親から離れたあと,母の元に戻ろうとしたとき,途中のちょっとしたことにはばまれてすぐには戻れないことがある。こんなとき,離れたところから母親に向かつて腕を伸ばす。すると母親が近づいて,その手をつかんで引き寄せる。

また,子どものしぐさがなくても,子どもに危険が及びそうになるとつかまえて引き寄せる。チンパンジーの母子を,運動場から勉強部屋まで通路を通して誘導するとき,次のような光景を何度か目にした。この通路には,途中にいくつか電動の仕切りがある。子どもが母親から離れて通路をひとりで移動しているときに,閉まりつつある仕切りに向かっていくことがある。そのままだと仕切りに手や足を挟まれそうになっているのだが,子どもは,お構いなしだ。こんなとき,すぐに母親が気づいてうしろから子どもを引き戻す。

社会的な知性

相手の合図を理解して適切に対応する。合図の意図など相手の気持ちを理解して対応する。相手のおかれた状況を理解して適切に対処する。こうした知性は,他者とのかかわりの中ではじめて発揮される知性であるという意味で,「社会的知性」と呼ばれる。人間のさまざまな知性の進化にはこの社会的知性が大きく関わっているという考え方がある。

こうした説が唱えられるとき,チンパンジーを例にして引き合いに出されるのは,だましたり,だまされたり,順位をめぐって闘争を繰り広げたりする場面だ。たしかに,相手の行動や意図を予測してだましたり駆け引きしたりすることの利益は大きい。 しかし3組の母子を観察していると,社会的知性が母子間の日々のやりとりに大きな役割を果たしていることに気づかされる。チンパンジーは,生まれながらにして他者とのかかわりの中で生きている。

3人の母親は,はじめから完壁な子育てができたわけではない。チンパンジーの育児は, ヒトの場合もそうなのだが,完全に遺伝的に組み込まれた行動ではないからだ。しかし,3人とも立派な母親になった。他者とのやり取りを学習を通じて身につける社会的知性がチンパンジーに備わっているからだろう。子から母への働きかけが母のふるまいを変え,母から子への働きかけが子のふるまいを変えていく。社会的知性の成立の鍵を,チンパンジーの母子間コミュニケーションの発達が握っているのではないか。知性の進化について,3組の母子のふるまいが新しい答えを導いてくれるに違いない。

この記事は, 岩波書店「科学」2002年1月号 Vol.72 No.1  連載ちびっこチンパンジー 第1回『母と子のコミュニケーション』の内容を転載したものです。