出典:岩波書店「科学」2020年7月号 Vol.90 No.7
 連載ちびっこチンパンジーから広がる世界 第223回 田中正之『チンパンジーとゴリラにおける文化的行動の伝播――京都市動物園の「お勉強」の文化を次代へ受け渡す』

チンパンジーとゴリラにおける文化的行動の伝播――京都市動物園の「お勉強」の文化を次代へ受け渡す

京都市動物園のゴリラの家族

京都市動物園にはゴリラの家族が暮らしている。父親が19歳のモモタロウ。母親が33歳のゲンキ。8歳の長男ゲンタロウと,1歳半の次男キンタロウの4人家族だ。両親と息子2人で人間の家族と変わらない。ここのユニークな文化として「数字の勉強」をしている。 1, 2,3,4とアラビア数字を順番に触る課題だ。タッチモニター画面に仮想的に区切られた3行4列のマトリックスがある。でたらめな位置に数字が出る。それを正しい順序で触れたら正解で,リンゴやニンジンの小片がもらえる。

ゴリラの「数字の勉強」は長男のゲンタロウが生まれてから始めた。 2014年5月に,当時2歳5ヵ月の彼がまず触った。常に息子のそばにいた母親が3ヵ月後の8月に,新しい物にはきわめて慎重な父親も翌15年1月にタッチモニターに触った。いわば新奇な文化を最初に取り入れたのが子どもで,次いで母親,最後に父親という順になった。

ゴリラの食事は牧草や木の葉が中心で,1日に全員分で15キロほども給餌される。勉強は夕食時におこなう。草や木の葉を食べていてもいいし,勉強に参加してリンゴやニンジンを少しだけ食べるほうを選ぶこともできる。まったくの自由参加だ。勉強に来たり来なかったりする。

2018年12月に生まれた弟のキンタロウは,まだ母親による自然哺育中だ。神経質なところがある母親は,出産後約1年の間,ほとんど子どもを手離すことがなかった。ようやく1歳5ヵ月を過ぎて,離れていっても慌てて引き戻すことが少なくなってきた。

兄ゲンタロウは8歳とはいえ,体重は60キロを超える。弟はまだ10キロにも満たない。兄もちびっこの弟に興味津々だが,扱いが雑なのが困ったところ。よく母親に怒られている。その腹いせに弟をいじめたりするので,母親は兄を警戒して近づけさせない。兄は家族の中でやや疎外されているように見える。年長の子どもの通る道だ。父モモタロウは190キロを超える巨漢だが,とにかく小さい子どもには優しい。母の信頼は父に厚いようだ。父親が課題をしているときにはちびっこキンタロウがすぐ近くまで見にやって来る。父親の大きさを基準に作った装置は,子どもには大きすぎ,格子にぶら下がらないと届かないのだが,それでも頑張って両面に手を伸ばそうとするようすも見られるようになった。父親が手本になるのかもしれない。

チンパンジーの兄弟は師弟関係

京都市動物園のチンパンジーの兄弟は,母親は異なるが,とても仲良しだ。兄のニイニが7歳,弟のロジャーが2歳になる。2人とも1歳前には仲間がやっている認知課題に興味をもち,自らタッチモニターの画面に手を伸ばし始めた。チンパンジーの勉強部屋にはタッチモニターが3台あるのだが,チンパンジーは全部で6個体。弟ロジャー以外の全員が数字の勉強の経験があり,タッチモニターがなかなか空かないのが悩ましい。

4月の休園期間中に,午前中ずっと勉強部屋を開けておいて,いつでも入れるようにしたところ,大人が屋外でのんびり休んでいる間に,2人の兄弟で勉強をするチャンスがやってきた。モニター3台に2人なので弟ロジャーも勉強に取り組めるはずだが,放っておくと,ずるい兄は弟の問題まで奪おうとする。弟の様子を見ていて,兄が来るとさっと問題を消してしまうようにした。そういう「えこひいき」をしてあげて,ようやく小さな弟に勉強のチャンスができる。思えば,兄ニイニが勉強を始めた幼いころ,彼の勉強を邪魔したのは大人の男性タカシだった。タカシの隙をみながらニイニにチャンスを作ることを繰り返し,やがて大きくなって自分でその機会を見つけていった。弟ロジャーも今は小さいのでひいきしてやらないといけないが,やがて成長とともに自力でなんとかするだろう。すべて兄が通った道だ。

「お勉強」文化の伝播

京都市動物園のゴリラもチンパンジーも野生の群れのようすを最小限で再現している。双方に,兄とは5~6歳ほど歳の離れた弟がいるという状況になった。「数字の勉強」は,チンパンジーが始めて11年,ゴリラが6年になる。その間にそこで暮らす全部の個体が課題の参加者になった。途中で他の動物園から移ってきた者,京都市動物園で生まれた者,全員である。ちびっこの弟たちがようやく勉強を始めようとしている。そのようすを通じて,兄弟や親や仲間との関係を紹介した。それは私たち人間の家庭や社会で起こることと何も変わらないことがおわかりいただけただろうか。学びの原動力は,「仲間と同じことをしてみたい」という強い意欲だといえる。それは群れで仲間と暮らす種として,生得的に備わったものだろう。人間も変わらない。仲間との暮らしが彼らの行動の多様性の基盤にあることを,そして私たちとほとんど同じ基盤をもった進化の隣人たちがいることを,動物園から多くの人に伝えていきたい。

※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため,京都市動物園は4月7日から5月17日まで休園しましたが,チンパンジー,ゴリラたちの「お勉強」は続けていました。
この記事は, 岩波書店「科学」2020年7月号 Vol.90 No.7 Page: 0586-0587  連載ちびっこチンパンジーから広がる世界 第223回『チンパンジーとゴリラにおける文化的行動の伝播――京都市動物園の「お勉強」の文化を次代へ受け渡す』の内容を転載したものです。