出典:岩波書店「科学」2006年6月号 Vol.76 No.6
 連載ちびっこチンパンジー 第54回 田中正之『泣く子には勝てない』

泣く子には勝てない

図: アユムにコインを差し出す母親アイ(左)と,受け取る子どもアユム(右)

子どもに泣かれるのは,親としてはつらいものだ。子どもが泣くと,まるで自分が悪いことをしたような気持ちになる。子どもの泣き声に気持ちを強くゆさぶられるように親はできているのだろう。一方,子どもの方は,成長するにつれてその効果を知るようになる。泣きながら,親の出方をうかがっているふしがある。泣いても親が知らん顔をしていると,さらに大きな声を出して泣き続ける。我慢比べとなると,負けるのはたいてい親の方だ。泣く子には勝てない。

「フィンパー」という泣き声

ちびっこチンパンジーの母親たちは,子どもが6歳になる今でも,泣き声を聞くと,あわてて駆け寄って抱きしめる。チンパンジーの子どもはヒトのように大きな声で泣かず,口をとがらせて「フーッ……」というか細い声を発する。「フィンパー」と呼ばれるチンパンジーに特有の泣き声だ。チンパンジーの子どもが不安な気持ちになったときや,困った状況に陥ったときに発せられる。しかし,ふだんの生活では,チンパンジーの子どもはヒトの子どものようにしょっちゅう泣くわけではない。意図して泣いているようにも見えない。子どもが泣き出したときには,母親の方もグリメイスと呼ばれる「泣きっ面」になることもある。チンパンジーの母親も人間と同様に子どもの泣き声に強く気持ちをゆさぶられるようだ。

コインを取り合う場面

チンパンジーの母子関係を,彼らの直接的な交渉を通して調べたいと考えた。日常生活を観察していても,チンパンジーの子どもと母親との直接の交渉を見る機会は少ない。そこで,互いに競合する場面を設定して,母子の交渉を見ることにした。第37回で紹介した,コインをめぐる3組の母子の競合場面である。

部屋の床に40枚のコインがばらまかれている。このコインを入れるとリンゴ片が出てくる自動販売機が部屋の壁に取りつけられている。コイン1枚につきリンゴ片1個が出てくる。母子が部屋に入ったら,外からいっさい介入はしない。コインを分け合うのも,ひとり占めするのも,中にいる2人しだいだ。さらに母子間の交渉が起こりやすくなるように,自動販売機が2台ある条件と1台だけの条件を設定し,5回ごとに交互に繰り返した。

この実験をはじめた当初は,3組の母子ともに,自動販売機が2台あるときには,母子がそれぞれコインを拾って分かれ,リンゴを買った。1台だけのときには,母親がリンゴを買いに来ると子どもは自動販売機の前から離れ,母親がコインを拾っているときにだけ,リンゴを買いにきた。母親がたくさんコインを拾ってもっていると,長いこと自動販売機の前にいて,子どもはリンゴが買えない。チンパンジーの母親は,ふだんは自分から子どもを気遣うようなことはしないのだ。そんなとき,子どもはせっかく拾ったコインを手放してしまうこともあった。そのため,自動販売機が1台だけのときには,母親の方が多くのコインを拾い,リンゴを買っていた。しかし,しだいに母親がコインを拾わなくなった。部屋に入ってきても,コインを拾うのが面倒になったかのように座りこんでしまう。コインを拾うのは子どもだけ。母親は何もせずに帰る日が多くなった。

泣く子にコインを与える母

ある日,アユムは入室するなり7枚のコインを拾ってリンゴに交換しに行った。この日は母親のアイもたくさんコインを拾っていた。アユムがコインを使いきり,もどってきたときには3枚しかコインは残っていなかった。アユムはすぐにそのコインを拾ったが,リンゴを買いには行かず,その場でアイを見ていた。やがてアイは販売機に向かって歩き出した。そのとき,アユムは歩き出したアイに向かって,「フッフッ,フッフッー」と泣くような声でフインパーを発した。その声を聞いてアイはアユムを振り返った。アイは引き返してアユムに近づき,そして右手にもったコインをすべてアユムの手に落とした。アユムはそれで泣き止んだ。アイは左手のコインだけをもって自動販売機に入れに行った。左手には5枚しかコインがなく,すぐに使い切ったアイは部屋の隅に行って寝転がった。

アユムはそれを見て,もらったコインをもってリンゴを買いはじめた。このとき,母親のアイは25枚ものコインを与えていた。アユムがリンゴを買っている間,アイはずっと無言でおだやかな様子だった。

これ以降,アユムのフィンパーの頻度は増えていった。アイがコインを拾っているとき,コインを入れているとき,アユムは何度も泣いた。アユムのフィンパーを聞いたアイは,コインを拾う手を止め,アユムのところに引き返してきた。拾ったコインを与えることもたびたびあった。

同じ時期に,もう1人の子どものパルも,アユムと同じようにフィンパーの頻度が増えた。そのときの母親のパンの対応もアイと同様だった。

泣く子には勝てない

子どもたちがどのような意図をもってフィンパーを発したのかはわからない。しかし,子どものフインパーには母親に,自分のことよりも子どもの世話に向かわせる効果があるようだ。

子どもは,1回小さく泣いて母親の反応がないときには泣き続けた。何度も同じような場面を経験するうちに自分のフインパーの効果を学習したと考えてもよさそうだ。結局,母親は,子どもにコインを独占されることになった。子どもに対してふだんは優位者として振る舞えても,泣かれると弱いのは,ヒトもチンパンジーも同様のようだ。そして,親の態度を見抜くずる賢さもヒトとチンパンジーでは共有されているらしい。

この記事は, 岩波書店「科学」2006年6月号 Vol.76 No.6  連載ちびっこチンパンジー 第54回『泣く子には勝てない』の内容を転載したものです。