出典:岩波書店「科学」2017年1月号 Vol.87 No.1
 連載ちびっこチンパンジーと仲間たち 第181回 狩野文浩・平田聡『他者の心を読む類人猿』

他者の心を読む類人猿

心の理論

他者の心を読む能力は,社会生活においてもっとも重要な能力のひとつである。他者が何を考えているか,どのような気持ちでいるのかを察することで,協調したり,無用の衝突を避けたり,逆に出し抜いたりできる。他者の心を読む能力を,心理学では「心の理論」と呼ぶ。他者の心についての「理論」を構築する能力,という意味である。この能力はヒト独自のものだろうか?それとも,ヒト以外の動物も心の理論を持つだろうか?この疑問に答えるために,これまでいくつかの研究が実施されてきた。ある研究では,役者が何か困っている状況を演じる動両を用意した。そして,その状況を解決する写真と,解決には無関係な写真のどちらかをチンパンジーに選ばせたところ,正しく解決する写真を選んだ。困っている役者の意図をチンパンジーが理解したことが示唆される。

また別の研究では,優位なチンパンジーと劣位のチンパンジーに食物を競わせ,相手の視点を理解する能力を調べた。ある食物は,優位と劣位のチンパンジー両方が見ることのできる位置にある。また別の食物は,劣位のチンパンジーだけが見ることのできる位置にある。劣位のチンパンジーは優位のチンパンジーと競っても負けるので,相手には見えず自分だけに見える位置にある食物を選ぶほうがよい。実際に,劣位のチンパンジーは優位のチンパンジーから見えない食物を取りに行った。このような研究から,ヒト以外の動物―少なくともチンパンジー―も「心の理論」を持っていると考えられるようになった。

誤信念

しかし,これまでの研究でチンパンジーに解決できなかった問題がある。「誤信念」課題と呼ばれる課題である。この課題では,他者が何か現実とは異なる状態を信じているとき,その他者の頭の中にだけ存在する「信念」を理解することが問われる。過去におこなわれた「誤信念」の研究の1例では,優位のチンパンジーがいない間に,食物の場所が移動される。劣位の個体は,競争相手が戻ってきたとき,現実の食物の場所ではなく,「誤信念」にもとづいて,入れ替えられる前の場所に相手が行くと予測しなくてはいけない。しかしチンパンジーはこの課題をうまくこなすことができない。競争相手の「誤信念」ではなく,現実の食物の場所にもとづいて,間違った予測をしてしまうからである。したがって,これまでの研究結果からは,類人猿の持つ「心の理論」は限定的で,ヒトのように「誤信念」を理解する能力はないと考えられてきた。

以下に紹介する研究では,これまでの結果に反して,類人猿にも「誤信念」を理解する能力があることが示唆された。過去の研究とは手法を変え,ストーリー動画を見ている時の他者の行動を予測する目の動きを,アイ・トラッキングという技術を用いて記録した(図)。

類人猿に見せた動画
図: 類人猿に見せた動画

京都大学熊本サンクチュアリおよび独ライプチヒ動物園で暮らす,ボノボ15個体,チンパンジ-19個体,オランウータン7個体を対象に2つの動画を用いて視線計測をおこなった。実験1では,動画の中でヒトの役者とコスチュームの偽類人猿が争っている。あるタイミングで偽類人猿が画面右手の干草の山の中に逃げ隠れる。それを見たヒト役者は,ドアの向こうに棒をとりに行く。すると,ヒト役者が見ていない間に,偽類人猿が別の場所に移動し,最終的には立ち去る。偽類人猿が立ち去った後,ヒト役者が戻ってくる。この時点で,ヒト役者は「誤信念」を持っていることになる。つまり,偽類人猿はまだ右の干草の山に隠れている,と誤って信じている。だから,棒を持ったヒト役者は,偽類人猿を攻めるべく,この干草の山を叩こうとするはずだ。このとき,動画を見ている類人猿たちが,役者の「誤信念」の理解にもとづいて予測的に右の干草の山を見れば正解で,別の場所を見れば不正解である。条件統制のため干草の山の左右を入れ替えた条件でおこなって合計した結果,参加した半数以上の類人猿が正解の場所をみた。

実験2は,このシナリオを変えたものだ。基本的なデザインは同じである。類人猿役者が干草の山に隠れる代わりに,石を箱の中に隠す動画を見せた。結果,実験1と同様に,半数以上の類人猿が正解をみた。実験1と実験2を総合的に分析すると,統計的に信頼できる結果が得られた。

類人猿3種で,種による違いは特になかった。3種すべてが,動画に出てくる役者の「誤信念」の理解にもとづいて,この役者の次の行動を予測するような視線を示した。

今後の展望

今回の研究は,類人猿もヒトと同様に「誤信念」を理解できることを示唆した点で,大きな学術的進歩であった(米サイエンス誌掲載)。ただし,新たな疑問も生じた。なぜ,類人猿は今回の研究で誤信念理解を示し,過去の他の研究では同様の理解を示すことができなかったのだろうか? 今回は,単に研究上の工夫がよかったのかもしれない。つまり今回の研究では,類人猿の潜在力をテストする文脈がよりうまく設定できたのかもしれない。

ただし別の考え方もある。「心の理論」と「誤信念」理解にもさまざまな機能的なレベルがあって,今回の研究はその一端を明らかにしたに過ぎないのかもしれない。アイ・トラッキングという新たな技術を生かして,今後もさらに謎が解けるよう研究を続けたい。

この記事は, 岩波書店「科学」2017年1月号 Vol.87 No.1  連載ちびっこチンパンジーと仲間たち 第181回『他者の心を読む類人猿』の内容を転載したものです。