熊本サンクチュアリにようこそ
友永雅己(ともながまさき)
京都大学霊長類研究所思考言語分野 准教授
京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリ 前所長
熊本の宇土半島の突端近く,有明の穏やかな海に面したところに日本のチンパンジーの15%が暮らす場所がある。1978年にできた三和化学研究所の熊本霊長類パークが,「チンパンジー・サンクチュアリ・宇土」として新たなスタートを切ったのが,2007年の4月(ちびっこチンパンジー第70回)。それからもう4年半がたった。そして今年(2011年)の8月1日に,この地は,京都大学野生動物研究センター(第77回)の附属施設「熊本サンクチュアリ(KS)」としてさらに新しい一歩を踏み出すことになった。その歴史や経緯はすでに上記の回や第91回など「ちびっこチンパンジー」で幾度となく言及されている。そこで,この機会に少し違った視点でこの4年半を振り返ってみたい。
熊本サンクチュアリにようこそ
私自身は,サンクチュアリに4年前に併設された寄附講座「福祉長寿研究部門」の併任教員として,本格的にこの地のチンパンジーたちと関わることになった。2007年8月のことだ。そのころから月1回を目標にして,愛知県の犬山市と熊本県の三角町(今は宇城市)の間を40回弱も往復した。朝の8時過ぎに自宅を出てサンクチユアリに着くのは1時前。約5時間,900kmを超える旅をこんなにも繰り返したのか。優に地球1周を超える距離である。我ながら飽きずにつづけられたものだと思う。その理由は,熊本という土地の魅力とサンクチュアリに暮らすチンパンジーたちの魅力に尽きる。宇土の町の定宿や飲み屋のおかみさんはいつも笑顔で私を迎えてくれるし,犬山に暮らす14人のチンパンジーとはまた異なる表情を見せるサンクチュアリのチンパンジーたちも,彼らの経験してきた過酷な歴史とは裏腹にいつも満面の笑顔(と大量の口に含んだ水)で私を迎えてくれる。
物覚えの悪い准教授
チンパンジー研究者とはいえ,わずか月に1回1泊2日数時間の滞在では50人を超えるチンパンジーの顔をすべて覚えるのは不可能だ(もしかしたら他の方には簡単なことなのかもしれないが)。この4年間,居室越しの対面場面を利用して細々と実験を続けてきたのだが,飼育員の森さんにお願いして各部屋にいるチンパンジーの名札を張っておいてもらわないと全く個体識別ができなかった。したり顔で「ゴロウ!」などと呼んでいると,飼育員の野上さんに「先生,その子はシロウ!」などと叱られる始末だ。先日など,あるチンパンジーにひととおりあいさつやらグルーミングやらをしてもらった後で,「みょうにこの子は愛想がよくなったなあ」などと飼育員の方を振り返ってつぶやくと,「先生,そいつはベル!」と周りにいた全員に突っ込まれてしまった。ベルというのは私が共同研究をさせていただいている高知県立のいち動物公園から戻ってきた男のチンパンジーなのだが,その時まで本当にこいつがベルだとは気づかなかったのだ。研究者失格なのかもしれない。
出会いと別れ
このサンクチュアリでは,国内の他の動物園などの施設へとチンパンジーたちが引っ越していき,また向こうからもいろいろなチンパンジーーがやってきた。さっきのベルもそうだが,印象に残っているのは,のいち動物公園からやってきたトーンとケニーだ。彼らは,さまざまな問題からチンパンジー集団に順応するのが苦手になっていた。しかし,ここでは,彼らを集団に合流させるためのさまざまな手だてが施された。その結果,彼らは全身傷だらけになりながらも,少しずつ男ばかりのグループに溶け込んでいった。彼らは今でも時々大小さまざまな問題を起こしてはいる。しかし,時間とスタッフたちの努力が必ず彼らの心を開いてくれるはずだ。一方で悲しい別れもある。この4年半の間に8人ものチンパンジーが永眠した。享年の平均は33歳。つい最近もイヨという名の女性が癌でなくなった。けっこう仲良くしてもらい顔もよく覚えていた数少ないチンパンジ一だっただけにショックだった。
私が所長ですか?
チンパンジー・サンクチュアリ・宇土という一企業の施設からKSという京都大学の附属施設への移管は,日本のチンパンジー研究にとっても大きな転機となるはずだ。犬山に暮らす14人のチンパンジーとKSの51人(2013年7月現在は59人)のチンパンジー。日本全体の2 割のチンパンジーが京都大学に所属することになったのだ。運営指針にあるように,KSは「野生動物に関する教育研究をおこない,地球社会の調和ある共存に貢献する」という野生動物研究センターの目的の「実践のための最重要の中核的教育研究拠点」であり,「絶滅の危惧される野生動物を対象とした基礎研究を通じて,その自然の生息地でのくらしを守り,飼育下での健康と長寿をはかるとともに,人間の本性についての理解を深める研究をおこなう」ことが求められている。そのために,あえて名称から「チンパンジー」の文字をはずしている。そのKSの所長にこの8月から不肖この私が就任することになった。月一で来熊することには変わりないのだが,これまでとは違って,運営の隅々まで目配りしなくてはいけない。その重責に髪の毛も抜ける思いである。ただ幸いなことに,先人たちの想像を絶する努力とスタッフたちの日々の努力に支えられてKSは順調に船出した。今後は,国際交流も含め多くの研究者が快適に研究でき,チンパンジー飼育担当者などの研修にも開かれる施設にしていきたい。そして,チンパンジーにとっても素晴らしい施設になるよう努力しよう。

熊本サンクチュアリにようこそ。
この記事は、 岩波書店「科学」Jan,2012 Vol.82 №1 連載ちびっこチンパンジーと仲間たち第121回『熊本サンクチュアリにようこそ』の内容を転載したものです。




2011年11月13日に行われた第14回SAGAシンポジウムの熊本サンクチュアリ見学ツアーの様子




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