ランタンプラン・ニュースレター

No.29  2006.8

―06ネパール・ランタン村報告―

06年5月12日から一ヶ月間ネパールを訪問してきました。一年間続いた国王親政後のネパール、国民に戻された民主主義と過激派の行方はどうなのか、ランタン村の新しいシステム見学、久々の雨季直前の訪問ということで動植物との再会など、不安と期待いっぱいで訪ねました。
今回の訪問は4週間の予定で、ランタンへの2週間を挟んで前後2週間をカトマンドゥ滞在に充てました。帰国以来諸般の事情が自乗し29号アップが大変遅れましたが、以下にご報告します:


ランタン村へ
◇ ネパールの友人たち:バサンタ・パントさん(モデル・ホスピタル脳神経外科医師)
           マサコ・ヒラタ・バルワさん(ミトラ・プライマリースクールの校長先生)
カトマンドゥ雑記  

◆ ランタン村へ
久々に乗り合いバスで出発。終着点シャブルベンシまで8時間。道路は、今年4月に国王親政が終焉、マオイストとの停戦も成り、これまでのようなマオイストによる道路封鎖に煩わされることもなく、軍/警察のチェックも1ケ所のみ。物資輸送のトラックやバス、タクシー、オートバイが普段どおり危なっかしく往来していた。村へはシャブルベンシに一泊後、歩いて2日。2日目の早朝、ツァンダムとチュナーマの中間地点でニマに会う。ニマは馬をつれて迎えに下りてきたのだった…。


         <写真1: 乗合いバス>

ランタン谷は緑でおおわれ、標高4000米あたり、対岸の森林限界の先端にはまだシャクナゲの潅木が薄ピンク色の縁取りをなして咲いていた。畑地はソバとオオムギの緑の濃淡がモザイク模様のように続く。耕作地の西の端タンジュから一番上方の村シンドゥムの先まで。ソバはまだ地上数センチの延びで、この時期に間引きが行なわれる。間引きを済ませた畑地は気持の良い黒い土でそれと分る。村中の女衆は雇ったり雇われたり、総出の農作業だ。男衆はこれまでほどではないにしても、雨期前に夏場の薪集めに出かける。

          <写真2:ソバ畑>

         <写真3:ソバの間引き作業>

 その他、副収入の目玉、「ヤツァグンブ」(薬草となる「夏草冬虫」)採りも秘かに盛んに行なわれていた。土地をあまり持たないものたちは毎日のようにキャンチェン周辺を往復する。細いスルメイカの足のようなのが1本20〜30ルピーらしい。1ルピーは約1.5円。多いもので一日20〜30本くらいを採集するとか。土中のイモムシとそこに生えた棒状の菌類が地上数センチの頭を出す。みな這いつくばって、わずかな菌類の動きから見つけるのらしい。乾燥させて商品とする。
‘ヤツァグンブ’は近年とみにその需要が増加している。中国本土や台湾(それに日本)からの買い付け競争のせいだ。チベットやヒマラヤ地方では、隠れたビジネスとして莫大な金が動いている。西のドルポ地方では、‘ヤツァグンボ’の採集権利をマオイストが握っていた。チベットからバイヤーがヒマラヤ越えでやってくる。ランタン谷にもここだけの話し、そういう仲買人がやってくるそうだ。因にランタンは国立公園の中にあるために、薬草のみならず植物一切の採取は禁止されている。

234ヶの電球!
新しいシステムの出力15キロワット。昨年8月に送電を始めて1年近く。ランタン村全110戸(うち宿屋20軒)に60ワットの電球234ヶが灯った。具体的には、民家には60ワットの電球1ヶあるいは1ヶ+15ワットの蛍光灯1ヶ平均。宿屋は部屋数+α(街灯、テレビやラジオ用コンセント)。これらの電気代月額総計14040ルピー。お寺や高齢独居者は免除です。
黄昏時にわが下宿近くの牧草小屋の上から村を眺めると、遠くにぼぉ〜と赤い光が点々として、暖かい気持がにじみ上がってくる。在家僧のプチュンは片足と片方の手が萎えていて、兄弟とは別にひとりで住んでいる。彼の一間きりの小さな家にも1灯。

        <写真4:プチュンの家にも電気の灯>

チュダーチュの新しいシステム
新しいパワーハウスは、ツァンポ(本流)からわずか10メートル離れた場所に水面より4、5メートルの高さに石の土台を組んだ上に設置されていた。前回見た時は大水が出た時のことが心配されたが、チェンガたちはあまり気にしていないようであった。水源は村の二つの川が合流する地点で一旦水を集め、それより35メートルの水路(畑地の下に暗渠)をくぐって2番目のタンクで水量をコントロールする。2番目のタンクはゴミや小石などを排除する為に2つに仕切られている。この第2タンクから全長215メートルの鉄製導水管を通して一気にパワーハウスへ流し込む。
新しいシステムは、水は全てパワーハウスの床下で処理される為に、小屋内部に水が入り込むこともないし、コントロールボックスやタービンなどは自動制御装置が働くよう設計されている。不正な電力使用があった場合、ブレーカー(3つの地域区分)やタービンの自動制御装置が落ちる。多分、ネパールの小規模水力発電では最新鋭のものだろう。製作したネパールヤントラシャラ社でも、設計図を見て驚いていたそうだ。

      <写真5:第1タンク 足の下に水路>

      <写真6:第2タンク>

      <写真7:パワーハウス>

      <写真8:システムの心臓部>

      <写真9:送電線>

発電された電力は一旦、チーズとパンを製造するワークショップへ送られる。ワークショップから、それぞれゴンバ地区、ユル地区(本村)、ムンロー/シンドゥム地区の3つに送電されている。嬉しいことは、送電の柱はトレッカーたちの目に触れないように人道から30メートル離れた場所に設置されていることだ。
ゴンバ地区と本村との間の川ペーベ・チュの川幅は150メートル、本村と上方のムンローとの間の川ヌムタン・チュの川幅80メートル。見上げるような立地に送電線が張られている!これを、ネパ−ルヤントラシャラ社の技師一名とニマ&チェンガ、それに村びとの有志が成し遂げたのだ!!

ワークショップにて
家畜群はまだ夏の放牧地(谷の東奥、標高4000〜4800メートル)に出発する前で、ワークショップでは、パンのみ製造していた。それもトレッカーの訪問は三々五々、あまり商売にならないシーズンだ。日本からのお土産もなし、ランタンプランから村の子供たちにパンをプレゼントすることにした。2才以上の子供達全員にだ。トレッカー用は未精製の小麦粉に若干の塩味だが、子供たちには少し砂糖を加え、持ってきたレーズンも入れた。ニマとチェンガは張り切って、午前六時に村への送電をOFFにすると、ワークショップの(電気)オーブンを暖め、パン種の仕込みを始めた。夕刻までフル稼動で、120ヶのパンを焼き上げた。
現在、村の子どもの数は減っている。多くがカトマンドゥやドゥンチェの寄宿学校へ行っているからだ。村の学校にも異変がおきているし、(外国人のスポンサーをみつけて)都会へ子供達を送る教育の在り方に問題がないわけでもない。全国の識字率(就学率)が4〜50%、首都カトマンドゥでさえ70%であることからすれば、この村は80%以上。まだ高学年の卒業生は少ないが、あと五、六年後、この教育を受けた子どもたちをどのように村は受け入れるのか?
昨年のことだ。元村長ティレー・ラマはヘランブーの男と謀り、父兄からお金を集め、子どもたちをカトマンドゥの学校へ送ると言って、実際にはアパートの一室に閉じ込め餓死寸前まで放置していた。ここを逃げ出した子どもやわがテンバのしつこい追跡でようやく実態が明らかになり、救出されたという事件もおこっていた。教育の問題については、また別の機会に議論することにしよう。

ともかく村にいる2才以上5年生までの子ども、母子家庭と独居高齢者合計百十数人に1ヶづつのパンを、ニマとチェンガと私とで手分けして配って回った。称して‘ハッピーパンディ’。

   <写真10:パンの仕込みをするニマ>

  <写真11:焼き上がったパン ニマ(左)とチェンガ>

       <写真12:パンをもらったよ>

私の10日間の村滞在中、数組の外国人トレッカーがワークショップを訪ねてきた。カナダの人権団体EQUITASのコーディネーター夫妻は、ネパール人へのトレーニングの後にトレッキングに来たのだと話していた。ニマとチェンガは特製アップルパイとチーズトーストなどをテーブルに並べた。長いほうのパンはクミンシード入りだ。カップはミントティ。
秋のトレッカーシーズン2ヶ月間は、カチョカバッロのチーズトーストにトマトを載せたピッツァ様のものが一番人気で、トレッカーの口から口へうわさを呼んで繁昌しているような口ぶりだった。

    <写真13:お客さま ワークショップのテーブル>

LTBSの運営
現在、ツォーカン開発委員会(LTBS)は、委員長のテンジン・パサンを中心に10数名の委員で運営されている。社会福祉団体としての登録も96年以来更新を続けている。事業は二つ:電気事業とワークショップ事業。電気事業にかかわるシステムの保守と点検、朝夕の送電作業の全てをニマとチェンガが行ない、二人はLTBSから各人月額2000ルピーの手当てを受けている。余剰の電気料金から得た収益はシステムの維持・修理費としてドゥンチェの銀行に預金されている。預金額は六月初旬の段階で4万ルピーほど、らしい。
後者のワークショップ事業は、独立採算制でニマとチェンガが一切を運営している。働けば働いただけ収入になるとあって、短い秋のシーズンには寝る間も惜しんで働いているようだ。現在の二人の年間平均月収はLTBSからの補助を入れて4〜5000ルピーというところ。トレッカーが戻り、村びとの購買力がつけば、スタッフの雇用も可能になってくる。もう少し、様子をみてみたい。

また、薪の問題は殆ど解決していない。莫大な薪を消費するキャンチェンのチーズ工場では、雨期前に下方の対岸から一人70KGの薪の束を、何十人ものタマン族のポーターが担ぎ上げていた。今後、官立のチーズ工場とLTBSあるいはテンジン・パサンが委員長をつとめる周辺三郡環境整備組織バッファーゾーン委員会の間で話し合われるべき問題ではないかと思う。

        <写真14:公衆衛星電話室>

◆ 雨季間近のランタン谷

     <写真15:森の中で>

     <写真16:森の妖精>

     <写真17:崖ッ淵のみつばちの巣>

     <写真18:キャンチェン周辺で>

     <写真19:村の周辺で>

     <写真20:ナキウサギ>

     <写真21:イエロ−ポピ−>

     <写真21:ランタンリルン南稜>



◆ ネパールの友人たち
● ネパールのブラックジャック、バサンタ・パント医師
年間のオペ数百件。日本の広島大学医学部で脳神経外科を学んだドクターパントは、今ネパールでもっとも忙しい脳神経外科医だ。活動拠点はカトマンドゥとポカラ。カトマンドゥの本拠地モデル・ホスピタルでは赴任の8年間に1400件余りのオペをこなしてきた。
この春、カトマンドゥでは王制に反対する市民が日毎ふくらみ、カトマンドゥの周縁を取り囲むようにデモが繰り広げられ、その都度武装警察と衝突してきた。加えて、民主化の活動家たちの検挙も弁護士、大学教授、芸術家や医師たちにも及び、ドクターパントの同僚も捕らえられてしまった。国王が屈服する最終段階では、血みどろになった市民たちが何百人もかつぎこまれた。自分が武装警察の餌食になれば誰が市民の命を守るのか、と病院に寝泊まりの日々であったとか。
私立の病院モデル・ホスピタルがネパール中に知られる契機は、皮肉にもこの民主化運動中にかつぎこまれた患者によってだった。脳神経の外科手術が必要なケースがかつぎこまれた時、「誰がこの患者たちの手術代を支払うのか?!」と新聞広告を出したそうだ。彼の友人でネパールの慈善事業団体も組織する超有名なコメディアンMAHAから30万ルピーの寄付があり、ドクターパントも5万ルピー、市民からも続々浄財が寄せられて、最終的に何と2千万ルピーにも達した。以来、モデル・ホスピタルの名称の入った救急車が現場にかけつけると人びとから拍手で迎えられるまでになったそうだ。 
彼の医療活動を母校の広島大学やアンナプルナ脳神経センター医療協力会(広島市)などが支援してきた。ドクターの夢は、ネパールの辺境地や遠隔地の患者たちのための救急輸送体制を確立すること。日本生まれの12才の長男ジュン君、次男アカ−シュ君、5才の利発な長女ネーハリカちゃんの頼もしいパパだ。

<写真23:モデル・ホスピタルでドクと命をとりとめた重症の患者>

モデル・ホスピタル↓
http://www.kmh-nepal.de/


● 教育一筋25年のバルワさん
1981年開校のミトラ・プライマリースクールは、就学年前の3〜5才のプレプライマリーの子どもとそれ以上5年生までの児童を受け入れている私立の学校だ。マサコ・ヒラタ・バルワさんは創設者で校長先生。ミトラ・スクールが他と違っている点は、バルワさんの専門である音楽と図工というネパールの学校のカリキュラムにはない、創造性と心身の発達を養う教育に力点がおかれているところだ。学校は、パタン市の入口にあたり、児童の多くがこの地域に住むネワ−ル族だ。シャルパ族や在留の日本人の子どもたちも通ってくる。
近年、カトマンドゥやネパールの地方都市では、私立の学校が増え続けている。質もさまざまだ。バルワさんは現状に悲観的だ。需要を満たすために教師の質が落ち、指導法の修得や教育実習などの経験のない教師が急増している。ネパールの教育の基本的な部分がないがしろにされおり、教育の将来にとって危機的でさえある、と。父兄たちも子どもの社会への順応性や適応性よりは、10年生卒業資格全国統一試験(SLC)にハイレベルで合格できるかどうかに関心が集中しているのらしい。
彼女の学校でも、新しい先生の再教育の問題をかかえているようだ。でも、訪ねた学校の子供たちや児童の何と無邪気で活発なこと。図工の教室ではどの子もピカソのように思えた!
日本からの音楽や図工のボランティア教師を希望しています。但し、少なくとも継続的に何学期か教えることができる方に限ります。食住の若干の補助のほかはボランティアでできる方を。詳細をお知りになりたい方は、貞兼にコンタクトしてください。 
Email: asadakane@nifty.com

     <写真24:マサコ・ヒラタ・バルワ先生>

   <写真25:ミトラ・スクールの子どもたち 学芸会で>


◆ <カトマンドゥ雑記>
ウィ〜ウィ〜、ピーポーピーポー、シュルシュル、ピーピーピー。カトマンドゥの朝はこの音で目が覚める。ゴミ収集車が通り一帯にゴミ集めを告げる合図の音。日本のような音楽ではなくて、救急車と起重機の音を合体させたような機械音だ。早朝のこともあれば、かなり陽が高くなってのこともあった。飲食店、ホテル、土産物屋の並ぶタメール通りの細い路地から、住民達がゴミバケツやビニール袋などを抱えて大急ぎでやってくる。二人の男性のうち一人は住民のゴミ出しを手伝い、荷台の上の一人はむき出しで投げ込まれるゴミを、生ゴミ、ビニール、ペットボトル、カン、ガラス類、段ボールと手際良く仕分けしている。素手にゴム草履。
いつごろからカトマンドゥ市内のゴミ分別収集が始まったのだろうか?これまで気づきもしなかった。分別をしているからには、市内のどこかにゴミの再生工場もあるのだろう。昔は、麻袋と分銅を担いだインド系の人たちが、「プラーノシシカーガッツァ?」(空き瓶、古新聞はないかね)と収集に回って来ていたものだ。目方で買ってわずかばかりのお金を置いて行った。
そう言えば、新聞売りの声もけたたましい。新聞の大見出しを声高にヒステリックに連呼しているのだが、何を言っているのだか。「極東のJ国首相任期前に辞任」とか..(ないだろう、ね)。

   <写真26:王制を倒し、勝利のデモ。ニューロードで>

カトマンドゥ在住の私のランタンの息子(本当はリクチの長男)に5月15日第二子が誕生。嫁の陣痛が始まって六時間近く、私は生まれて初めてお産に立ち会った!!女児、名前をニンダ・パルモ・ワコ(和子)と付けた。意味は日月の天母。

  <写真27:生後1週間目の妹を抱くソナム・リンチェン>

長くなりました。まだ書き残したことがたくさんあります。次号にてお伝えします。
                                 貞兼綾子/8.11.06
ご意見は事務局かこちらまで asadakane@nifty.com


☆今後の活動予定とカンパのお願い

貞兼代表の報告にもあるように、LTBSは自力でシステムの改良と新プロジェクトの立案と進行を成し遂げたものの、ネパールの政情不安の影響もあり、チュダー・チュ拡大プロジェクトの完成を目の前にして、窮地に追い込まれています。代表の緊急アピールに賛同された皆様からのカンパや御寄付を、ぜひお願いいたします。LTBSの活動状況や現地の様子など、これからも随時ご報告させていただく予定です。

  振込先:ランタンプラン 郵便振替 01040−4−51106



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