ランタンプラン・ニュースレター

No.24  2002.3.15

大変ごぶさたしております。ニュースレターNo.24をお送りいたします。今回は、今年の二月にランタンに行ってこられた貞兼代表によるツォーカン活動の現状報告です。報告にあるように、ランタンツォーカン開発委員会(LTBS)の活動は順調ですので御心配なく。今後も基本的には彼等の自主努力にまかせ、活動を見守る予定です。今後もニュースレターで現地の様子を適宜お伝えしますので、御意見等およせください。

☆今後の活動予定とカンパのお願い
今後数年間は大きな現地活動をしない予定です。しかし必要があればすぐに人員を派遣できる体制は維持したいと思っています。会費としての資金援助のお願いはいたしませんが、皆様からのカンパや御寄付をお願いいたします。今後の活動については、会員集会や報告会を開催し、皆様の御意見を伺って、必要があれば改めて提案させていただく予定です。

  振込先:ランタンプラン 郵便振替 01040−4−51106

ランタン報告

しばらくのご無沙汰です。いかがおすごしでしょうか?当地では梅もあらかた散り、早くも桜のつぼみがふくらみ始めました。
2月にネパールを訪問してきました。久々のチベット正月をわがランタン村の家族と共に過ごすことと公民館(LTBS)のニマの結婚式に出席すること、それと、システムの移転に伴う助成金を運びあげることも任務の一つでした。2月6日から24日までの三週間のうち、村にはたったの8日間の滞在でしたが、時計が17、8年前に巻き戻されたような楽しい楽しい正月でした。写真つきでご報告します。

チベット正月元旦。家々の屋根に新しい旗が立つ

旗上げに始まるチベット正月
今年のチベット正月は西暦の2月13日。暮の12月29日にはグトゥッパという五穀のおかゆを食べる習慣があります。訳して「29日の粥」。日本の年越しソバのようなものです。大晦日は新年の料理つくりに家族全員が大忙しです。一番大切な作業は、去年の旗を下ろしておくことと、家の内外にメリケン粉で祝いの印をつけること。料理つくりは本当はもう数日前から始まっているのですが、それでも夜中まであれやこれやと忙しそうにしている風景は日本と変わりありません。
明けて元旦。まだ空が白みはじめる前に水を汲みに行き、仏壇に供えます。それから家を香木を焚いて浄め、男達は手にツァンパとお神酒を持って、天井から屋根に登り、いよいよ旗立てです。家々によって旗の色は違いますが、概ね青、白、赤、緑、黄色の五色の布を繋ぎあわせた長さ2米くらいのものを仕立てます。青は空、白は雲、赤は夕焼けの雲、緑は木、黄色は大地を表します。ランタン谷は風の通り道。しっかり据え付けられた旗柱は、午年の一年間、強い風にも耐えて家々を守ります。人々は、ランタンリルンに向かって、日の出と共に(今年は8時ころだった)谷の神々に家内安全、家畜と農作物の豊穣を祈り上げるのです。
それからようやく、この日の為に新調した晴れ着に身を包み、家内でテルカという正月の祝い膳をいただきます。村の正月は三日まで。元旦は家族と共に家で祝い、午後になるとそれぞれの地区内の縁者を訪ね合います。2日目はゴンバ地区の縁者を3日目はシンドゥム/ムンローの親戚縁者を訪ね、正月の祝い膳にお酒をいただいてきます。
 全て17、8年前と同じお正月の風景でしたが、一つ違っていたのは、テルカ膳が昔は我が家からもらうだけでしたが、今年は近所隣、嫁に行った我が家や隣家の娘たち、それに公民館の若者もみな膳をもって私に挨拶にきてくれたことでした。そして、あの時の家族はパサン・タルケーじいさんとヤンジャンばあさん、リクチーとダワの夫婦に子供が4人。長女セル・プティ、長男テンバ、次男ギュルメー、次女ツェリン・ダワの8人だった。私がトト、カカと呼んだ老夫婦も亡くなり、長女はムンローへ嫁に行き、長男テンバはカトマンドゥの医療専門学校の学生(今回私と一緒に帰省した)で山を降りている。2002年の正月には、リクチーとダワ夫婦、次男のギュルメー一家が6人。妻のデッキー、長女ツェリン・ツォモ、次女ペーマ・ヤンジェン、長男ンガワン・ナムギャルに2ヶ月前に生まれたばかりの三女プティの合計8人。数に変わりはないけれど、そして大人も子供も食事の位置も仕事の役割も全然変わっていないけれど、昔、私をチチ(母方のオバ)と呼んだ子供達の子供が今は私をイビ(ばあちゃん)と呼んでいる!


花嫁と花婿。 二人の間にはすでに息子が

ニマの結婚式
 花嫁側一族郎党が花婿であるゴンバ地区のニマの家に到着すると、手に祝い酒を抱えた女衆が一行を迎えて歌います。

遠路はるばる ようこそ ようこそ
   (ごらんあれ)飛馬のごとく疾駆する 馬 馬
ティシン(樅の一種)の枝の繁り 五百(年)どころか常磐(とこしえ)に

めでたや めでたや
さあ、寿ぎの家へ さあ、喜びの家へ

山が雲を呼ぶごと 幸運を招く
(ごらんあれ)草地には瑞々しい 草 草
プルンプルンと露もこぼれる
川には魚 五百(疋)どころか殖え盛る

めでたや めでたや
さあ、寿ぎの家へ さあ、喜びの家へ


二人の門出を祝って女衆が歌う

18歳になったリクチーの次女、ツェリン・ダワと公民館のニマの結婚式は正月4日、盛大に挙行されました。既に二人の間には2ヶ月になる息子が生まれていて、花嫁は我が家から出発という部分は省略されましたが、その他は形式に則って、賑々しく進行しました。結婚式前夜、花婿側の家族とゴンバ地区の人々がザンリーパという進行係りに先導されて我が家にやってきました。花嫁側の我が家にはリクチーとダワ双方のクランに属する人たちと近所の人々が集まり、立錐の余地もないほどです。電気の光の中に集う人々、気分はいっそう盛り上がります。花婿側から、米を敷いた盆にカタ−とお金を添え、集まった人たち全員に「明日の結婚式には是非ご出席いただいて、祝っていただきたい」旨が伝えられます。この日集まった人々は6、70人。それぞれに25ルピーもしくは50ルピーが与えられます。ざっと見積もっても3000ルピーにはなります。金額の違いは縁者との関係を表します。私にも50ルピーが盛られました。花嫁のオバにして、花婿の仕事場の監査役ですからね。

披露宴の人々をお見送りする新カップル


二人の結婚の印しがつけられ儀式が終了すると、人々から祝福を受けます。披露宴はニマの家(両親はゴンバ地区の入り口で小さな宿屋を経営しています)の裏の畑に敷物がコの字を左90度回転した型に並べられ、新郎新婦と介添えの男女、花婿の両親を中心に人々が席につきます。祝辞などの儀礼は一切ありません。村びとがそれぞれ酒とカタ−に添えて祝儀のお金を送ります。コの字の中央で、ザンリーパが送り主の代わりにおもしろおかしくメッセージを添えて、新郎新婦との関係を明かし、送られる金額を高らかに披露するのです。私は大奮発をして、花嫁に2000、花婿に1000、花嫁花婿の両親にそれぞれ1000、花婿の兄二人に500づつ、介添えに100づつ、ザンリーパ三人に500。それと別に弘前大学教育学部の前田善仁さんからの2500ルピー(これは花婿が1500、花嫁が1000に分配された/前田さんは齋藤先生のチームと一緒に昨秋ランタンに滞在)を送った。送られるお金は家の事情、二人との関係の遠近によってまちまちだけれど、相場は100〜500。17、8年前の10倍になっていました。
この披露はえんえん2時間余りも続きました。新郎側の段取りや人望によって30分で終了する式もあるようです。新郎ニマの父親がお酒でまっかになった顔を引き締めて、「アチャーラーが出席してくださったおかげで式が盛り上がりました」と宣いました。式の日取りが決まった1月、父親はカトマンドゥから日本の私に電話をしてきて「是非、来ていただきたい」と言っていたのです。結婚式の善し悪しは振る舞われるお酒の質と量にもよります。この日のお酒は大樽にして10本余り、披露宴の後の歌と踊りは明け方まで続きました。

お父さんそっくりの息子。名前はナムカ・ギャツォ(空海)名付け親は貞兼です。

その後の公民館活動
 今年は水量が豊富で、私の滞在中も電気は例年に変わらない明るさを保っていました。ただし、この時期最大3.5kwほどしか電力がなく、三日に一日は停電します。乾期は、3つあるメインの送電線を2ラインづつ送電しているからです。パワーハウスから一番遠い我が家のあるティシンカン部落と隣接のパルドゥンサ部落の一部が第一系統、パルトゥンサの北部分と隣接のピティルが第二系統、パワーハウスに最も近いホテル群が第三系統です。今日第一と第二に電気を送ると、明日は第二と第三、その次が第三と第一という具合ですが、文句をいう人は誰もいません。

 2001年9月〜12月の公民館の経営収支は次のようでした。
収入の部   Rs
電気代徴集    18140(未払い含む)
パン売り上げ    20767
チーズ売り上げ    50770
クッキー売り上げ          3334
ハーブティ売り上げ       1200
  ガタ(粉挽き)       2000(内、310未払い)
ランタンプランからの借り入れ    61000
ランタンプランからの助成    10000

  収入合計  167521
支出の部
ミルク購入代    36310
パン/クッキー材料費     8063
メンテナンスと修理代(カトマンドゥ出張費、輸送費を含む)
      17000
三人の公民館委員の給料五ヶ月分  52500

  支出合計  113873
             差し引き残額 53648

夜間成人学級その後
 9月からナイトスクールが専任の先生を置いて再開しました。ユル地区は公民館でサチップ・ギャルボが担任、シンドゥム/ムンロー地区は小学校の分校でダマイ・ツェワンの息子のテンバが担当しています。報酬は一日70ルピーで、オーストラリアのNGOがサポートしています。チェンガたち三人も任務を解かれてほっとしているようです。

システム移転に関するランタンプランからの助成
 皆様から御支援いただいた助成金は70万円にのぼりました。ご報告は事務局から改めていたしますが、このうち60万円(33万ルピー)を懸案のシステム移転に関する助成に充てさせていただきました。見積もり額は約72万円、そのうち村側が40万ルピー、ランタンプランが残りの32万ルピーを負担することになっています。ただし、この72万ルピーには輸送費やセメント、シンドゥム/ムンローのシステム再開費などは含まれておりません。LTBSの委員長であるテンジン・パサンは現在、ランタン国立公園のパファーゾーン委員会の委員長も兼ねています。彼の考えでは、システム移転に関する不足分は、公園内の環境整備プログラムの最優先課題として、バファ−・ゾ−ンい委員会の予算から配分しようと思っているようです。バファー・ゾーンの基金は、私達外国人が支払う公園入山料(ひとり1000ルピー)で賄われています。
 年間を通して一定の安定した電力を得るためのシステム移転は、この4月に工事請負のネパール・ヤントラシャラ・エナジー社が渇水期の調査を行い、出力が決定されることになっています。現存のジェネレーターを利用するために、最大8kwしか出せませんが、新しく発注するターバインは調査結果に対応できるものを設置することにしてあります。将来彼等自身で対応するジェネレーターを購入設置することを期待するためです。また現パワーハウスは、かつてキャンチェンで利用した日本製のジェネレーター(3kw)を復活させて、チーズ/パン工房や公民館専用で使う予定です。
 4月の調査結果に従って、新しいシステム部分を製作、7、8月には移転工事着工の予定になっています。また、現在のシステムを設置する(拡大プロジェクト)工事に参加していただいた、砂防技師の野島孝之さんが現在ドリケール=ジャナカプ−ル間の道路建設でネパールに滞在中ですが、4月に短期間、ネパール・ヤントラシャラの技師と共にランタン谷を訪問、測量などの仕事を手伝ってくださることになっています。チェンガたちが、ネパールの技師10人分の仕事を一人でやったという男です。
 依然として公民館運営上の問題は多々残されています。収入の大部分を占めるチーズとパンの工房は9月から12月、トレッカーのシーズンのみであること。また電気料金の徴集がはかばかしくなく、なかなか黒字に転換しません。新しいシステム移転がそれを解決してくれるかどうか?まっ、期待いたしましょう。チェンガ、ニマ、ギャルボには、「もうどうにもこうにも、自分達の力では無理だ!と思った時しか連絡しないで。もちろん良いニュースがあればいつでもおたよりちょうだいね」と申し渡しました。正月に晴れて、夫であり父親になったニマは、「僕達でできる限りやってみるよ」と答えました。今回の訪問で一番嬉しい言葉でした。

 皆様のご支援に感謝し、彼等の今後の奮闘に期待していただきたいと思います。

(貞兼綾子)





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