Newsletter No. 31

ランタンプラン・ニュースレター

No.31  2009.2

-ランタン報告・その他-
今年は2月25日がチベット暦己丑のお正月。今ごろランタン村では、カトマンドゥやドゥンチェへの買い出しなどで忙しなく年の瀬を過ごしていることだろう。
年々カトマンドゥが近くなり、食べ物や衣装など都会で調達したものがあふれるようになりました。 さて、久々の更新。ニューズレターはまだ当分、折々にお送りしたいと思っています。

08年8月から9月の1ヶ月余り、ネパールを訪問してきました。 雪氷の藤田耕史さんたちの『ヒマラヤにおける氷河研究プロジェクト』(名古屋大学・大学院環境学研究科・地球環境科学専攻・大気水圏系に所属する氷河研究グループ)と 相前後しての入山となりました。グループは3班に分かれていて、私は第2次と第3次の研究者たちと村で出会うことができました。 本当に10年?20年ぶりのランタン谷での再会。藤田さん、幸島司郎さん、そして竹中修平さんたち。地上でお会いするのと雲上で再会するのとでは気分が全然ちがいます。 しいて言えば晴れがましくお迎えするような気持。
竹中さんからは特別手記をいただいたので、掲載します。その後で、遅くなりましたが写真で綴る今回のネパール訪問をお伝えします。



目次
■竹中修平・ランタン村再訪記
■ランタン報告
 小学校にパンのプレゼント
 タルナの7月15日祭
 ヘ(ジャガイモ)の病気
■亡命チベット人たちの平和行進



ランタン村再訪記
今年(2008年)の9月,名古屋大学の氷河調査隊に同行してネパールのランタン谷を訪れました.1981年にやはり名大の調査隊で来てから27年ぶり,2度目の訪問です。81年は,カトマンズの北西30kmのトリスリまで車で行き、そこからからランタン村まで6日かけて歩きました。今では自動車道路がボテコシ沿いにシャブルベンシまで伸びたので、そこからはランタン村まではわずか2日の歩きです。  歩きの旅の初日は、モンスーン末期の蒸し暑い空気の中をラマホテルまで行き、そこで観測を終えて下山してきた幸島さんの京大隊と会いました。記憶が少しあいまいですが、以前のラマホテルは,森の中に竹を編んだ煤だらけの小屋が1,2軒建っているだけの場所だったはずです。今では10軒くらいのロッジがあり、ちょっとした村です。この晩は京大隊との合同大宴会となりました。  次の日の朝,京大隊とお互いを見送って別れ、ランタン川沿いに登ってランタン村に入りました。記憶の中のランタン村は山奥のくすんだような村でしたが、今では街道沿いの家々の大部分はこぎれいなロッジになっていました。よく見ると,電線が緩やかな丘を越えて谷の上流に向かって伸びています。一軒のロッジの庭で貞兼さんがお茶を飲んでいました。貞兼さんは日本を出てすでに一月経っているので、日本のニュースに飢えていました。ひとしきり貞兼さんのニュース欲を満たしてから向かったロッジでは、暗くなると電灯がつきました。 翌朝、ランタンプランの成果を見せてもらうために、ひとりで貞兼さんのロッジを訪ねました。このロッジの主,テンジン・パサン氏はランタンプランの地元スタッフのリーダー的存在です。風貌から温厚さ、思慮深さが感じられる人物で、貞兼さんの言葉の端々に彼に対する信頼がにじんでいます。二人の若い現地スタッフ、ニマ君とチェンガ君もやって来ました。両君はランタンプランが育てたスタッフとのことでした。 お茶を飲んでから、二人の若者に案内されて貞兼さんとパンとチーズの工房に向かいました。81年にはまだランタンプランはスタートしていませんでした。ですから、私には発電設備や工房を見るのは初めてのことです。  街道沿いに看板があり「ヨーロッパカントリースタイルのチーズとパン」という文字と矢印が書いてあるのですが、ちょっと錆びてペンキが剥げており、「矢印の方向に行ってみて,ホントにパンとチーズにありつける確率は半々だな」という風情です。工房に向かう道も看板と釣り合いのとれた藪っぽい道でした。  小川に沿って緩やかに丘を少し登るとすぐ、工房の建物がありました。案に相違してきちんと手入れされたこぎれいな建物でした。パンを焼く電気釜とチーズを作る設備があり、ニマ、チェンガ両君が製造から販売まで切り盛りしています。まだモンスーン明けの開店に向けて準備中で、残念なことにパンやチーズはありませんでしたが、道具類はきちんと整頓されており、掃除も行き届いていました。貞兼さんに厳しく厳しくしつけられているのでしょう。  看板のことを貞兼さんに言うと,「ここのパンとチーズはとってもおいしくて、一度来た人は必ずまた来るの。看板があんまりきれいだとお客さんが来すぎて二人じゃさばききれないんで、あれでちょうどいいのよ」との答え。なるほど。  テラスでお茶を飲んだ後、今度は発電システムを見せてもらいました。  貞兼さんによると、現在の村の電気のシステムは2005年に完成したそうです。ランタン村での水力発電は1996年に、ランタン谷右岸(北岸)の岩壁から水を6kwの発電機に引いて稼働を開始したそうです(旧システム)。しかし水源が枯渇したり、冬季には水量が減って出力が激減したりと、現地スタッフが工夫を重ねても電力供給がなかなか安定せず、電気料金が徴収できない。スタッフの給料も払えないのでメインテナンス不足で、ますます電力供給が不安定になる、という悪循環に悩まされたそうです。関係者が知恵を絞り議論を重ねた末、思い切って新しいシステムを作ることになりました。数年にわたる調査と建設作業の結果、2005年に完成した新システムは、冬になっても十分な流量のある村の近くを流れる川から取水し、標高で100mほど下のランタン川のほとりにあるパワーハウス内の15kwの発電機を回します。見るからにアクロバチックに岩壁に張り付く旧システムの導水管と違い、新システムはしっかりしたコンクリートの導水路とパイプで発電機まで水を引いています。これによって,冬でもランタン村の各戸が電灯を使える程度の電力が安定供給できるようになりました。  
新システムの建設資金は、テンジン・パサン氏が自分で見つけてきた複数の援助団体が提供し、不足分をランタンプランが出資したそうです。現在、テンジン・パサン氏を中心とする電気委員会が運営を行っており、ニマ,チェンガ両君は電気委員会に雇われて発電・送配電システムの維持管理や電気料金の徴収を行う形になっているそうです。
電気のない村で生まれ育った彼らが,自分たちで発電・送配電システムの設計や建設に関わり,技術的なトラブルや災害と闘いながら,小規模とはいえ電力を安定して供給するという事業を維持しています。立派なものです。同時に20年以上にわたって彼らを見守り,育ててきた貞兼さんや幸島君達ランタンプランの中心メンバーの見通しの確かさも、実感しました。 谷底にあるパワーハウスから村への道を登る道すがら、貞兼さんは電線を眺めては「美しいなー」を連発。きっと貞兼さんの目には現地スタッフ達のこれまでの苦労が写っていたのでしょう。 実はこの前の日,貞兼さんはかなり落ち込んでいました。ランタン村の前村長ら地元の有力者が貞兼さんを誹謗中傷する根も葉もない話を振りまいている、ということが村人を通して耳に入ったからです.貞兼さんによると、彼らは旧来から様々な利権の独占や公金横領まがいの事をやりたい放題にしてきました。一方、ここランタン村では電気は新しい時代の象徴です。彼らにはテンジン・パサン氏や貞兼さんが、自分たちの特権的な立場を脅かすものに見えるのかもしれません。 ランタンプランのプロジェクトは「ランタン村公民館開発委員会」の名でネパール政府に公式に「社会福祉団体」として登録されているそうです。そのため会計が厳格化され、つけ込む余地が無いことも、彼らを一層いらだたせているかもしれません。
異国の山奥の小さな村の人々のために、何の見返りも期待せず20年以上骨を折ってきた貞兼さんが、何で?と感じるのは当然です。しかし,ランタンプランの活動が地に足のついたものであったからこそ、こうしたどろどろした確執に巻き込まれているのだとも思いました。 この後,私は貞兼さんと別れ、ランタン谷のさらに上流のキャンジンに向かいました。キャンジンでは、かつて一軒だけだったロッジが数10軒にもなっているのを見て肝をつぶしました。 なお、約2週間後、調査が終わって再び名大隊のメンバーと工房を訪れたとき、ニマ,チェンガ両君が我々全員に大変おいしいチーズサンドイッチを出してくれたことを付記しておきます。
(竹中修平/08.12.31)


写真1.工房の看板と工房(背景に電線と旧システムの導水管がみえる)


写真2. 貞兼さんと村の女性(右)



08ランタン報告
9月初旬モンスーンが間もなく明けようという時期、2年ぶりにランタン谷を訪問。往復ともバスだったが、途中の道が寸断されていて、三回の乗り換え。最後の行程は、カトマンドゥの息子テンバが車を手配してくれていたが、ガタガタのジープだった。いつものプル・パサンの宿には村からの迎えが来ていた。チェンガだ。シャブルベンシからランタン=コラ沿い左岸に架かる橋が流されて、カンチンマ(カンチックマ/一軒家)、シャルベゴを経由しての入山となった。
今回の訪問では、ほぼ25年ぶりに幸島司郎さんたち雪氷のグループと村で再会した。その他にも夏祭りや法事など10日間の滞在の毎日がイベント。旧知の村人も全部訪ねることができないほどだった。ランタンプランの経過などは竹中修平さんが好意的に報告してくださっているので、その他のことなどを写真でご報告。


写真3. ワークショップの前庭にて:幸島司郎さん(後列右から3人目)と牛田一成さん(後列右端)と学生たち


写真4. チェンガとニマと竹中さん


小学校にパンのプレゼント
恒例になったが、今回も小学校(年少、年長、小学1年)の子供たちにパンをプレゼントした。チェンガとニマは早朝から仕込み、お昼少し前にコッペパンの形をした少し砂糖を加えたパン80ヶを焼き上げた。麻袋に詰めて、小学校を訪問。7人いる先生はこの日は若い校長(母親はランタン村出身、ネパール語しか話せない)を含めて4人。子どもたちは40人。ドイツのNGOの援助で制服の支給、給食も無料配給。先生の給料も半分はNGOから、学校名もマンダラスクールというのに変更されていた。子どもたちの多くがカトマンドゥや地方都市の寄宿制の学校へと村を離れ、村の小学生は激減。この新しい半官半民の学校が、その歯止めになるか、見守りたい。


写真5. ワークショップのパン焼き釜から取り出した焼きたて


写真6. うれしいパン


タルナの7月15日祭
08年はチベット暦3月が前後2回もあり、例年であれば雨季の真っ最中の祭りであるが、少し秋風を感じる時期の催しとなった。西暦の9月15日。 タルナはリルン氷河の右岸、モレーンと岸壁に挟まれた気持ちの良い放牧地だ。ここに人が百人は収容できる大きな岩屋がある。チベットに密教を伝えたインドの聖者グルー・パドマサンバヴァが開かれた岩屋だと村人は言い伝えている。その聖者を言祝ぐ祭り。岩屋は、何年か前に後ろ半分が崩れ、天井の低い入り口部分のみになっていた。 岩屋では、在家層が経をあげ、人々は搾り立ての牛乳やバター、ツァンバやお菓子などを捧げ、農業と牧畜の最盛期にある一日を祝い合う。仏法の教えに思いをいたし、この谷の自然の恵みに感謝する。お酒もふんだんに奉納され、満月の下(あいにくひどいどしゃぶりだったが)明け方までの一昼夜、宴が続く。早々に放牧用の石室に引き上げたが、耳元で歌や踊りががんがんして殆ど眠れなかった。 この日、デビューしたばかりのシャーマンのお披露目があった。母親はランタンの女性、父親は亡命チベット人のカンパ族(故人)、発起してシャーマンを志願したのらしい。多勢に無勢、歌自慢のランタンワ達相手では、トランス状態も長く続かない。それでも片張り太鼓を打ち鳴らしながら明け方までどしゃぶりの雨の中、大きな人の輪を先導していたようだ。
村は、年々ツーリズムによる経済効果によって食料や衣料などに大きな変化を生じている。キンカップシャモ(女性たちのツバなし帽子)もソンバ(ブーツ)、プンショー(男性のジャケット)も稀にしか目にしなくなった。写真2は新旧の女性のかぶりものだ。男性のプンショーに代わるのは羽毛のジャケットやジャンパー。30年前いえ20年前まで主食はツァンバ、お米は1週間に1度くらいか半月に一度くらいだったのに、今は1日1食はごはんだ。 リクチーの小部屋に寄宿していたころは、起きぬけにツァンバのおかゆ(焼いた乾燥チーズが浮かせてある)、農作業の合間にはバター茶でこねて団子状にしたポルトー、夜は水で炊いたセンにジャガイモスープをおかずにおなかいっぱい食べたものだ。
それでもこの夏の祭りの賑わいをみる限り、服装は違っていても、踊りも歌も心意気も昔のままだ。深い谷、短い夏の草原、夜っぴて宴が消えてゆくのはまだ当分さきのことだろう。


写真7. タルナの岩屋入り口


写真8. 岩屋のなかではバターランプの明かりが一昼夜灯し続けられる


写真9. 新しい青年シャーマン

ヘ(ジャガイモ)の病気
ランタンの「へ」には大きく2種類あって、今第3の種類の導入が望まれている。
「そうか病」
がついてしまったのだ。村人に圧倒的に人気のあった改良イモは肥料がたくさんいるという難点を除けば、大きくて粘りがあり、各種ジャガイモ料理に重宝がられてきた。在来種を駆逐する勢いだった。しかし、導入25年を過ぎた今、大きさも普通のジャガイモサイズになり、かつ肥料を吸収しすぎることから土壌もやせ、今また村人の言う「ゼルバ」(かさぶた)が発生してしまった。試みに個人で新種を植えて様子をみているが、村人期待の粘りがいまいちのようだ。ジャガイモ料理(茹でたジャガイモを粘りが出るまでたたきつぶしてうどん状にし、スープと一緒に食べる。写真10)に不向きではお話にならない。
在来種のセトボテは、既に殆ど駆逐されてしまった。ジャガイモは主食の一つで、村で収穫できる数少ない農作物だ。食生活に不可欠のジャガイモ、できれば粘りのあるジャガイモを何とか導入できないものだろうか。

幸島さんのグループに参加してらした牛田一成さん(京都府立大学大学院農学研究科)にお話をうかがった:方法は二つ。耐病性のジャガイモを導入するか、土壌の消毒。 東西4、5キロ間に点在するジャガイモの植え付け対象地を全て消毒するとなると大変だし、新種のジャガイモ導入も村人の好みに合致する品種をみつけるのには少し時間がかかりそうだ。二つながら県の農地試験場や専門機関の協力が必要になってくる。その他、地場産業の特産品についてもアドバイスいただいたが、こちらももう少し勉強してこれからの課題として考えてみようと思う。


写真10. ジャガイモ料理を作るチェンガの奥さん


写真11. テンジン・パサン夫婦


写真12. 村の午後


写真13. 子猫。持ち主が誰といって決まってはいないが、野良猫ではない。


写真14. ツェルベチェの放牧地にて ネ年生まれのヤクウシ


--------------------------------------------------------------カトマンドゥ報告
亡命チベット人たちの平和行進に合流

08年3月、50年間も地中深くに押し込まれていた「チベット問題」が再浮上した。ラサの僧侶たちを中心に当局の人権抑圧に抗議する声が上がったのだ。これに対して圧倒的な武力を行使した中国政府、世界は抗議の声でこれに呼応した。 そのニュースに私は、これは狼煙だ!と叫んだ。これまで大手の新聞には、中国から真実の声がいくら上がったとしても、1平方センチほどの記事にもならなかった。今年記事になったのは、中国がオリンピック開催国だったからだ。威信をかけたスポーツの祭典。当局は情報の統制とチベットのみならず新疆ウイグル自治区、中国国内の民主運動家など火種になりそうな部分への過度の監視と締付けを行った。それがこの結果を招いたとも言えるし、その事実を露呈したとも言える。そしてそれを世界が見ていたということ。 ラサやチベット各地(伝統的なチベットは、チベット自治区、甘粛省、四川省、青海省及び雲南省の一部を含む)にも波及した。僧侶たちも決死の覚悟だったと思う。その為に200余名の尊い命が消され、5,6000人のチベット人が拘束された。〇九年の3月で1年になるが、当局は未だ警戒態勢を解いていない。9月にラサを訪問した友人は、「ラサはまるで鉄格子のない監獄だった」と言った。
カトマンドゥに入ったのは、オリンピックの少し後だった。カトマンドゥ到着の翌朝8月24日、わがカトマンドゥの息子テンバから電話があって、「今、バウダ(=ボーダナート)を出発した。急げば間に合う。マハラジガンジとリングロードの交差点あたりで待っていて。」急ぎタクシーを飛ばしたものの、亡命チベット人たちの平和行進は交差点を通過した後だった。親切なポリスが、まだ1キロ先だタクシーで行けば追いつくよと言ってくれた。 主催者の発表で2000人。僧侶たち、学生たち(各学校上級クラス)、若者たち、そしてお年寄りたち。整然とボランティアの交通整理に従って歩き続けていた。カトマンドゥの二つの仏教聖地、東のボーダナートから西のスワヤンブナートへリングロード10数キロの行程。炎天下、ボランティアたちが配るペットボトルの水がありがたい。 通常世界のどこでも見かけるデモや行進の先導旗が見当たらない。雪山獅子に旭日を配したチベット国旗(1912-16年ラサに滞在した青木文教のデザインという説もある)。シュプレヒコールも派手な横断幕もない。聞けば、カトマンドゥ当局のお達しで中止になったのだとか。ネパール語で書かれた、チベットに平和と人権を!を訴える横断幕のみだ。 私は日本でも愛用している紺色の傘に小さな雪山獅子旗を縫い付けたものを日よけ代わりにして参加した。列の前後左右、知っている人は皆無だが、互いに言葉を交わしながら(お年寄りは数珠を手に経を唱えながら)意気揚々と行進した。沿道のネパール人たちも道を開けてくれたり、拍手を送ってくれたりしている。ネパール人とチベット人とは文化的にも経済的にも千年来の関係があったことをふと思った。
この行進で1970年代末から音信不通にしていた旧知のチベット人タシに再会した。写真を撮影している時に、「アヤコじゃないか」と声をかけられた。ネパールでの私の最初のフィールド、ソル=クンブの南ジャルサチベット人難民キャンプの出身だ。このセッツルメントは、西南チベットのティングリやンガムリ、シェカーの出身者で固められていた。 その当時30代前後だった者も今は50代後半から60代前半。いわば日本の団塊の世代。ネパールのカーペット産業を興し、ネパール経済の一翼を担った者たちだ。タシは、ボーダナートの奥まった一角に彼のカーペット工場を持っていた。現在は工場は閉鎖し、お城のような家の部屋は間貸しし、自分は最上階に一人で住んでいる。奥さんや子どもたちはみなアメリカやカナダへ移住している。 彼を含めジャルサ出身の仲間たちは殆どが一線を退き、宗教と慈善事業に時間を費やしているようだ。数年前から、チベットの自分の出身地方に学校や病院を建設し、奨学金や医薬品を送っているそうだ。故郷を訪ねて、その教育や医療の現状に胸を打たれたと言う。こういうチベットサポートをチベット人自身で行っていることに嬉しさと希望をみる思いがする。
わがカトマンドゥの息子テンバはランタン出身のネパール人だ。現在フランスのNGOカトマンドゥ所長をしている。小さなオフィスのスタッフは殆どが亡命チベット人で、なかにはダラムサーラ出身者もいる。インド=ネパールの亡命チベット人コミュニティに医療品の援助と授産のサポートが主な仕事だが、08年は連日デモや行進に参加したらしい。テンバをはじめランタンの出身者もシャルパたちも同じチベット仏教徒として連帯したのだと思う。


写真15, Peace !


写真16. 平和行進

最後に、新しいワークショップの看板。いたずらされるのでトレッカーのシーズンのみ掲げるのだそうだ。昔つくったポスターを拡大してラミネートにプリントしてあった。


写真17. 新しいパン&チーズ工房の看板

(貞兼 綾子・ランタンプラン代表)


☆今後の活動予定とカンパのお願い

貞兼代表の報告にもあるように、LTBSは自力でシステムの改良と新プロジェクトの立案と進行を成し遂げたものの、ネパールの政情不安の影響もあり、チュダー・チュ拡大プロジェクトの完成を目の前にして、窮地に追い込まれています。代表の緊急アピールに賛同された皆様からのカンパや御寄付を、ぜひお願いいたします。LTBSの活動状況や現地の様子など、これからも随時ご報告させていただく予定です。

  振込先:ランタンプラン 郵便振替 01040−4−51106

☆事務局住所
〒606-8203 京都市左京区田中関田町2-24 日本学生支援機構内3F
京都大学 野生動物研究センター 幸島研究室気付 ランタンプラン
Tel: 075-771-4364 Fax: 075-771-4394 
E-mail:幸島司郎:kohshima@wrc.kyoto-u.ac.jp 貞兼綾子:asadakane@nifty.com(@は半角に直して下さい)
E-mailでの御意見も歓迎いたします。


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