ヒマラヤ氷河融水系の生態学的研究

竹内 望

極地や高山に分布する氷河や氷床は,決して無生物的環境ではなく,雪と氷の世界に特殊化した生物群集を含む特異な生態系である。氷河では水が主に固体の状態で存在するが,生物活動には液体水が不可欠なため,氷河生態系では氷上または氷体内に発達する融水系が主な生物の生息場所となっている。しかし,氷河融水系の特性,特に生物の生息場所としての特性はまだほとんど明らかになっていない。本研究では,ヒマラヤの氷河の消耗域において氷河の融水系に注目し,その生態学的特性を明らかにすることを目的に調査を行った.

ヒマラヤには,消耗域表面が多量の岩さいに覆われている大氷河と,ほとんど覆われていない小氷河とが存在する.小氷河と大氷河では,氷河の融解過程や融解水系の特性がかなり違ってくるため,代表的小氷河であるネパール,ランタン地方のヤラ氷河(1994.7.25-1994.8.27)と,代表的大氷河である東ネパールのクンブ氷河(1995.10.20-1995.11.19)の二ケ所で調査を行った.

◆ 小氷河の融水系:クリオコナイトホール ◆

小氷河の消耗域にはクリオコナイトホールとよばれる融解水系があり,生物の重要な生息場所となっている.これは氷河表面に発達する融解水のたまった円柱状の小さな水たまりで,底に黒い沈殿物(クリオコナイト)が堆積しているのが特徴である(図1).ヤラ氷河のクリオコナイトホールには,糸状の藍藻類2種,単細胞性の藍藻の一種と緑藻類4種の植物と,ワムシ,クマムシ,ソコミジンコ,ユスリカの幼虫などの動物が見られ,ヤラ氷河においても氷河生物にとって重要な生息場所になっていた.

クリオコナイトホールはヤラ氷河の消耗域の末端の高度5,120mから平衡線の手前の高度5300mまで分布し,直径は1cmから25cm,平均の深さは6.0 cmで,深さは北極やグリーンランドのものより,浅いことが明らかになった.深さには,北極の氷河で報告されているような高度に上昇による増加傾向はみられなかった.したがって,底部の氷が日射で外部表面が気温で融解するという北極のクリオコナイトホールの発達の図式は,ヒマラヤでは当てはまらないことになる.特定のクリオコナイトホールの深さの変化を一カ月間観測したところ,深さの変化は外部表面のアルベドの変化にほぼ同調していることが明らかになった.また,12個のクリオコナイトホールの発達状況を毎日観察しつづけたところ,そのうちの7個が3日から2週間にあいだに消滅した.これらの事実から,ヒマラヤ小氷河のクリオコナイトホールは北極のものより寿命が短く,消滅の頻度が高いこと,その変動は主に表面アルベドの変化によって生じることが明らかになった.

クリオコナイト粒の構造

クリオコナイトホールの沈殿物のほとんどは,沈殿物は大きさ0.2mm-2.0mm,平均0.5mmの黒い球状の物体,クリオコナイト粒であることが明らかになった.クリオコナイト粒には鉱物,糸状藍藻,黒い有機物が含まれており,重量比で6.8%が有機物で,93.2%が鉱物粒子であった.蛍光顕微鏡で表面を観察したところ,糸状藍藻がクリオコナイト粒の表面を密に覆っていることがわかった(図2).次に,クリオコナイト粒を樹脂で固め,薄片標本作成して内部構造を観察したところ,内部に小さな鉱物がいくつも取り込まれていることが明らかになった.また,クリオコナイト粒の切片を蛍光顕微鏡で見ると,クロロフィルをもった生きている糸状藍藻はクリオコナイト粒の表面のみに分布していることから,糸状藍藻が光合成によって活発に成長しているのは,クリオコナイト粒の表面付近に限られることが明らかになった.以上の事実は,クリオコナイト粒は,表面の糸状の藍藻が小さな鉱物を取り込むことによって成長する,ストロマトライト様な構造であることを示している.

藍藻が形成するクリオコナイト粒という構造は,氷河という特殊な生息環境に対する適応的形態であると考える.鉱物を取り込んだ集合体をつくることによって,融解水による流失の危険が大きい氷河表面で流されにくくなり,長期間氷河上に滞在できる.また,極貧栄養の氷河環境での重要な栄養塩源である鉱物粒子を捕捉して,効率よく安定的に栄養塩を獲得できる利点もあると考える.

生息場所としてのクリオコナイトホール

クリオコナイトとクリオコナイト粒に含まれる鉱物粒子の短波光反射率を比較したところ,鉱物粒子の方が高かった.この結果は,藍藻を始めとするクリオコナイト粒の有機成分が,沈殿物の短波吸収を増やし,クリオコナイトホールの発達を促進していることを示している.つまり,藍藻は黒っぽいクリオコナイト粒を形成することによって,クリオコナイトホールの発達を促進していると考える.このようにクリオコナイトホールは,生物によって形成・維持される特殊な環境であることが明らかになった.

クリオコナイトホールという藍藻が作りだす氷上の比較的安定な止水環境は,藍藻を含めさまざまな藻類の生息場所となり,生物や栄養塩源の流出を押さえて,氷河生態系における一次生産を大きくする効果を持つと考える.また,気温の低い氷河上で液体水の存在期間が長い場所であることも重要だろう.このように,クリオコナイトホールは小氷河生態系において重要な役割をもつ融水系であると考える.

◆ 大氷河の融水系:氷河上の池と氷河内部水系 ◆

大氷河でも融解水の集まった氷河上の池が,生物にとって重要な生息場所となっていることが明らかになった.各池の水の濁度や電気伝導度,水位変動パターン,生物相から,氷河上の池は次の3つのタイプに分けられることが明らかになった.

黄型:電気伝導度は低く,濁度が高いタイプ.水の色は黄色くみえる.ユスリカやカワゲラが生息.

緑型:電気伝導度は低く,濁度も低いタイプ.水の色は緑に見える.藻類がわずかに生息.

青型:電気伝導度は高く,濁度が低いタイプ.水の色は青く見える.生物がもっとも豊富.

3種の池の特性の違いは,水の供給様式,特に,氷河の内部融解水系との関係によることを示唆する結果が得られた.氷が露出している小氷河の消耗域に対して,大氷河の表面は岩や石に厚く覆われているため,氷河の融解過程や生態系の特性には不明な点が多いが,このような氷河上の池の実態の解明が,大氷河の融解過程,融解水系や大氷河の生態系を理解するための大きな手掛かりになる可能性がある.


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